石火矢(輸入)
いしびや
戦国期、海外から日本に輸入された大型砲。日本に渡来した石火矢は玉と玉薬を入れる取っ手の付いた付属品の入れ子の形式から東南アジア系のフランキ砲とみなせるという。後にはヨーロッパに直接発注するということも行われている。
大友氏の石火矢輸入
永禄三年(1560)三月十六日、豊後の大友宗麟は将軍・足利義輝に石火矢を贈っており、これが史料上における石火矢の初見とされる。この石火矢は外国からの輸入品とみられ、それは永禄年間、宗麟が外国に出した書簡に「ふたたび大砲を求めるは、自分が敵と境を接する海岸に住んでおり、敵の攻撃を防がねばならないからである。」と記していることから確認できる。
なお、宗麟は義輝に対して同時に種子島筒も贈っていることから、石火矢は種子島経由のルートで輸入されたとも考えられる。
大友氏の石火矢輸入に関するさらに確実な史料としては、天正四年(1576)ごろ、肥後の城氏に宛てた宗麟の書状がある。この書状で宗麟は高瀬に船で到着した石火矢について、城氏が運搬の人夫を徴発したことを悦び、高瀬に奉行人を派遣するとしている。
松浦氏の石火矢輸入
大友氏と同じく南蛮貿易を行った平戸の松浦氏も石火矢、ハラカン砲を館や城々に買いおいていたという(『大曲記』)。ルイス・アルメイダは永禄九年(1566)九月八日付の書簡の中で、五島侵攻を図る平戸松浦氏が多数の小銃と砲数門を準備しているとの情報を得たことを記している。
毛利氏の石火矢輸入
大友氏と敵対した毛利氏も東南アジア製とみられる石火矢を保有していたことが『防長古器考』から窺える。同氏は赤間関で中国・泉州の商人と交易していることが確認されており、そのルートで輸入したのかもしれない。
大坂の役に投入された大型砲
時代は若干下るが大坂冬の陣を前にした徳川家康はオランダに石火矢を発注していた。慶長十九年(1614)十一月、家康は長崎奉行・長谷川藤広からまもなくオランダから大砲が到着するとの報告を受けている。数量は十二門、玉の重さが四貫(約15Kg)から五貫目もあったというから、当時としては、とてつもない大型砲であった。
この石火矢は長崎から翌月兵庫に到着し、国友の鉄炮鍛冶のもとに運ばれた。慶長二十年二月、牧野信成が国友兵四郎らに出した手紙によれば、この十二門の石火矢は、絵図にしてオランダ国に注文したものだという。信成は手紙の中で銃腔の研磨や台金物の取り付けを依頼している。
家康はさらにイギリスからも大砲を買い付けている。1614年十二月五日付けでリチャルド・コックスが平戸から東インド紹介に送った書簡によれば、家康はカルバリン砲4門、セーカー砲1門を千四百両で購入し、あわせて火薬や鉛も購入している。