種子島筒
たねがしまづつ
種子島で製造、もくは種子島の技術で製造された鉄炮。
種子島での鉄炮製造
天文十二年(1543)、伝来した鉄砲とその関連技術を基礎として、もともと鍛冶が盛んであった種子島で鉄炮の生産がはじまったといわれる。弘治元年(1555)から二年間日本に滞在した鄭舜功も『日本一鑑』で国(中国)の商人が「種島」に製造法を伝え、その後、坊津や豊後、平戸、和泉などに伝播したとしている。
当然その製造開始時期はかなり早く、天文十八年(1549)以前と推定される細川晴元の書状によれば、晴元は京都の本能寺の仲介で種子島から鉄炮を入手している。
大友氏領国への移入
永禄三年(1560)三月十六日、豊後の大友宗麟は将軍・足利義輝に「経営料三十万疋」や太刀、馬、石火矢などとともに「種子島筒」を贈っており、大友氏領国に種子島筒が移入されていたことがうかがえる。
島津氏と種子島筒
また薩摩の島津氏は、足利義輝が種子島から南蛮人直伝の火薬調合法を入手する際にこれを仲介している。この関係性から種子島筒の移入も図られたとみられる。島津義久の家老・上井覚兼の『上井覚兼日記』によれば、天正二年(1574)十二月、覚兼は義久から「種子島之逸物」という「御手火矢」(鉄炮)を与えらている。
さらに慶長四年(1599)正月の島津義久の書状では、徳川家康が鉄炮を所望したことについてふれ、「たねがしまてツほう御所望之事、またここもとにて鉄炮御あつらへ候事」としており、領国内で種子島筒が定着していたことがうかがえる。