鉄炮(平戸)

てっぽう

 戦国期、肥前平戸において製造された鉄炮。

平戸における鉄炮製造

 松浦隆信の家臣だった大曲藤六によって著された『大曲記』には、「てつほう(鉄炮)なと作り初る事も、たねが島と平戸津よりそはしまりける」とあり、平戸で鉄炮が製造されていたことが示されている。弘治元年(1555)から二年間日本に滞在した鄭舜功も著書『日本一鑑』の中で、種子島から伝播した「手銃」の製造地として坊津や豊後、和泉(堺?)などとともに平戸を挙げている。

平戸の鍛冶

 鉄炮伝来以前から平戸では刀鍛冶の活動がみられた。江戸後期、松浦静山は著書『甲子夜話』の中で、鎌倉初期や南北朝後期に平戸に来住した鍛冶がいたことや、室町期の平戸の刀鍛冶について記している。平戸での鉄炮製造に背景には、このような平戸の鍛冶技術があったとみられる。

松浦軍の火器導入

 平戸に鉄炮が持ち込まれたのは、南蛮貿易を展開した松浦氏当主・松浦隆信の時代。『大曲記』によれば、隆信は「日本国にめつらしき物」であった鉄炮や鉄炮の玉薬を購入して蓄積していた。家臣には鉄炮を稽古させ、遂には下げ針を射ることができるまでになったという。鉄炮製造は、このような南蛮貿易による鉄炮や火薬の輸入、鉄炮の操作技術の導入の中で始まったものと考えられる。

 松浦隆信は輸入や自国製造で得た鉄炮などの火器を戦争に投入した。五島攻撃の際は、艦隊に多数の小銃や数門が載せられていたというし(「永禄九年九月八日付ルイス・デ・アルメイダ書簡」)、大村氏への援軍として鉄炮三十挺からなる鉄炮隊を派遣した際は、平戸衆の鉄炮技術に諸衆が舌を巻いたという(『大曲記』)。

 『大曲記』には、松浦氏の鉄炮についてこのようにある。「自国他国平戸のてつほう(鉄砲)の儀、そのかく(隠)れなけれは、とかく肥州へてき(敵)になる所は無之候」。松浦氏が「平戸のてつほう」の威力により周辺諸勢力を圧倒したことが端的に示されている。

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市場・積出港

人物

  • 松浦隆信

その他の関連項目

  • 石火矢:平戸松浦氏は南蛮貿易で石火矢などの大型火器も購入していた。

参考文献

  • 外山幹夫「松浦氏の領国支配」(『中世長崎の基礎的研究』 思文閣出版 2011)