温泉津
ゆのつ
入り組んだ入江である温泉津湾を天然の良港とし、平安期以来の温泉を持つ港町。16世紀中頃、銀を求める船舶が石見沿岸に押し寄せるようになると、その積出港である温泉津も日本海水運の要港に躍り出る。
温泉氏の時代、既に温泉津には長門国の出身と思われる「仙崎屋」の屋敷があったが、本格的な発展は同世紀後半、石見国を制覇した毛利氏の直轄関となり、同氏の山陰における中心的な水軍基地となってからである。
毛利氏はそれぞれ直轄支配する温泉津と銀山を一体のものとしてとらえており、銀の積出港を温泉津に限定することでその流通の掌握を図った。このため、温泉津には銀を求める、あるいは銀山に物資を搬入する各地の商船が集まり、温泉津の関料や物資運搬の過程で毛利氏に収める税は、採掘される銀とともに毛利氏の重要な資金源となった。
天正二年(1574)四月、湯原春綱は雲州辺の帆役と石州船一艘勘過諸役を免除されたが、温泉津のみは「御法度」として除外されており、毛利氏にとって温泉津がいかに重要であったかが窺える。
この翌年の天正三年(1575)、伊勢参詣の帰路で温泉津に滞在した島津家久は出雲衆や薩摩の船衆、町衆らと酒宴を催している(「中書家久公御上京日記」)。温泉津には銀を求めて広範な地域から商人が集まっていたのであり、温泉津、浜田では「船頭各々我々船に乗り候らへと申」すとあるから、石見-九州間を往来する船が多くあったことが分かる。