浜田

はまだ

 石見国中部、広く湾曲した浜田湾の北東に位置する深い入り江(松原湾)に面した港町。16世紀、石見銀の積み出しで活況を呈す石見国の代表的な港湾として栄えたとみられる。

松原湾。日本海に臨む入り江。天然の良港となり、多くの船が行き交った。
松原湾。

町場の存在

 年未詳二月十五日吉川元春書状において、元春は子の仁保元棟に小石見村を与えたことを「市浜田町人等」に伝えてくれるよう山県善右衛門尉に要請している。この文書は元亀から天正初年の間に発給されたものとみられ、16世紀後半、浜田が町場として発展し、市場も存在していたことがうかがえる。

中国の文献にみえる

 16世紀半ば、中国で成立した『図書編』は、石見は銀と銅をよく出すところだとして中津、須津、長浜温泉津とともに「番馬搭」(浜田)を挙げている。『図書編』の記述はこの時期の石見の港が石見銀の増産で活気付いていた状況を反映しているとみられる。

九州との交流

 実際、浜田にも各地から商人が来航していた。「中書家久公御上京日記」によれば、天正三年(1575)六月、薩摩の島津家久は伊勢参詣の帰路で逗留した温泉津や浜田において、秋目や坊津など薩摩・大隈各地の船衆・町衆と酒宴を催しており、南九州からも多くの商人が来航していたことがわかる。

 また家久は七月十日、浜田から出船して十二日に平戸に着岸しており、浜田が薩摩-石見間の貿易航路の石見側の起点であったことがうかげえる。

唐船の来航

 さらに浜田には海外からの船が着岸することもあった。永禄十二年(1569)、米原綱寛は浜田に唐船が入津していることを聞き、四、五日滞在して珍器などを買い求めている(『陰徳太平記』)。

Photos

浜田松原の海岸。海岸西方に位置する画面奥側の山が城山(浜田城跡)。 浜田の港となった松原地区の町並み。 会津屋八右衛門の碑。八右衛門は江戸期の浜田の商人。天保年間に海外貿易を敢行し、浜田藩の経済発展を助けたが、後に幕府に知られて処刑されたという。 外の浦の港。入り江である松原湾からさらに奥に入り込んだ入り江。江戸期、廻船の停泊地として多くの船が入港したという。 日和山から日本海を望む。日和山は外の浦を外洋から守る岬にある。江戸期の船頭たちは日和山に登り、天候や潮の流れ等を判断していたという。 日和山の方角石。日和山ではこの方角石をもとに風向きや風速が観測されていたという。 浜田城の二ノ門跡。 浜田城の本丸跡。 現在の浜田漁港。城山(浜田城跡)西側に位置する。

神社・寺院

  • 来迎寺

城郭

  • 浜田城

参考文献

  • 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』  吉川弘文館 1987)