中津(中須)
なかづ
中世、高津川と益田川が合流してできた潟湖に面する中ノ島(中洲)に形成された港町。日本海水運と益田周辺地域の結節点を担った。
石材からみえる畿内との交流
中津の福王寺境内には鎌倉末期の「元徳二年七月」と刻まれた畿内産御影石の五輪塔の一部が残っており、鎌倉期から石見守護・北条得宗家やその地頭・益田氏のもとで畿内との交流があったことがうかがえる。
中世中津の住人
永和二年(1376)の「益田本郷数年貢目録帳」には「大中洲」に「地頭鍛冶名」がみえる。大中洲の居住者のみに「水衆用途」が春秋五百文懸けられており、職人集団や海運業者が居住していたことがわかる。
中世遺跡の発掘調査
発掘調査により現在の中須町の中須西原遺跡や中須東原遺跡からは鍛冶工房跡が発見されており、中津における鍛冶の存在を裏付けている。鍛冶たちは造船や船の修理に必要な釘などの製作に関わった可能性も指摘されている。
これらの遺跡からは他にも掘立柱建物跡や墓、船を係留する舫い杭、そして船着きの礫敷き遺構も発見されており、発掘成果から中世の港町の姿が浮かび上がっている。
また瀬戸や備前などの国内陶磁器、中国や朝鮮の陶磁器も多数出土。15世紀のタイ産鉄絵壷の破片も見つかっており、東アジア、東南アジアとの交易の拠点であった可能性も考えられている。
中国の文献にみえる
16世紀半ばに成立した『明史』図書編で、石見国の港として温泉津などとともに「奴可(なか)」(中津)としてみえ、以前から国際的に知られていたことがわかる。応仁元年(1476)、益田地域の領主・益田氏の当主・益田兼堯に比定される「益田守藤原朝臣久直」が朝鮮に遣使しており、その遣使船の基地が中津であったのかもしれない。
中世益田湾の景観
益田医光寺所蔵の雪舟の絵には中世益田湾周辺を描いたと思われるものがあり、そこには10艘以上もの帆掛船が係留されている中津の姿がみえる。おそらく大型船で運ばれてきた荷は中津で小型船へ積み替えがられ、益田本郷の内港へと運ばれたものと思われる。
益田氏自身、先述の朝鮮への遣使など海運への積極的な関与が知られており、中津がその基地として日本海水運に関わる重要な港であったことが推測される。
益田今市への転換
一方で中津は16世紀末の検地時の史料では港湾として認識されていない。14世紀後半の海退や河川流路の変化によって衰退し、16世紀に入ると港湾機能は益田川上流の今市に移行したとも考えられている。