備前焼

びぜんやき

 備前国の皇室領香登荘の伊部とその周辺の山地で生産された陶器。室町・戦国期には西日本全域へと流通した。

吉井川下流域で作られる生活陶器

 伊部周辺は吉井川下流域にあって山陽道が通り、交通の便がよく、原料土や燃料の入手にも適していた。窯跡や各地遺跡の出土例から、生産開始は12世紀中頃と推定され、13世紀中頃からは貯蔵や調理、醸造などに用途がある壷、擂鉢、大甕の比率が増大する。以後、中世を通じて備前焼はこのような生活陶器として用いられる。

琉球・今帰仁からの出土

  14世紀前半頃には現在のような茶褐色の備前焼が生産されるようになる。伊部を中心とした販売ルートも発達したとみられ、西日本全域の各地のほかに沖縄の今帰仁城跡からも擂鉢が出土している。

備前焼を記す史料

 またこの時期からは史料上にもみえるようになる。正安元年(1299)に描かれた『一遍上人絵伝』では福岡の市で備前焼とおぼしき壷が確認できる。ほかにも応安四年(1371)の『道ゆきぶり』には伊部地域における小甕の生産が記されている。

紀伊国にも運ばれる

 紀伊国南部の安宅荘内の長寿寺境内から出土した備前焼大甕には「暦応五年(1342)」の年号が刻まれており、年号が刻まれた備前焼の中で最も古い例として知られている。この大甕には他にも「備前国住人香登御庄」や「あつ(誂)らふ也」の文字、「僧」や「魚」の絵が刻まれている。これらは特注品として製造され、安宅荘に運ばれたとも考えられる。

 瀬戸内海の小豆島の東海上約6kmに位置する水ノ子岩付近の海底では 14世紀中頃の備前焼が大量に見つかっており、沈没船の積載品とみられる。同時に海底からはバラストとして使用されたとみられる河原石が引揚げられているが、岩石組成の分析の結果、紀伊国の紀ノ川流域か日置川流域の河原石である可能性が指摘されている。バラストを必要とするほどの大型の構造船が、備前焼など大量の物資を積載して、紀伊国と瀬戸内海の間を航行していた。

室町・戦国期の流通量増大

 15世紀後半以降、備前焼の生産量、搬出量はさらに増大。文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』では、伊部や兵庫、堺の船が千二百個以上の「ツホ」を兵庫に運んでいることが確認できる。この時期、西日本各地の遺跡での出土比率も他を圧倒するようになっている。天文十四年(1545)には関白家と鷹司家が備前壷役銭をめぐって争うなど、備前焼が市場で大量に流通していたことがうかがえる。

Photos

備前南大窯跡に残る備前焼の破片。

市場・積出港

参考文献

  • 「第三章 第四節 荘園の商業と交通」 (『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 ) 1991