福岡
ふくおか
吉井川の下流が山陽道と交差する水陸交通の要衝に形成された市場町。中世、穀倉地帯であった福岡荘や香登荘など周辺荘園や美作など吉井川上流地域の物資集散地となって栄えた。
史料上の福岡の「市」
正嘉元年(1257)の「福岡荘吉井村畠目録案」や室町初期の「吉井村領家年貢難済庶子等注文」からは、吉井村内に「下市」や「八日市」があったことがみえる。これらが福岡の市を構成していたとみられる。
『一遍上人絵伝』に描かれた市場
『一遍上人絵伝』には、弘安元年(1278)冬、一遍が訪れた当時の福岡の様子が詳細に描かれている。『絵伝』からは、当時の福岡の市が吉井川の中洲に形成されていたと推定され、中洲内の水路には物資を運送する船もみられる。また、市には水路に面して板葺きや柿葺きの小屋が立ち並び、既に定期市から常設市へと発展したことが分かる。そこでは米や魚、布、足駄など様々な日常品が売られており、さらに備前焼の大甕を並べている専用の小屋もみえる。
鎌倉期は福岡一文字派が台頭し、福岡は備前刀の産地としても知られるようになる。
室町期の福岡
福岡の経済的繁栄については、応安四年(1371)、九州へ下向する今川貞世が『道ゆきぶり』の中で、「家ども軒をならべて民のかまどにぎはひつつ、まことに名にしおひたり」と記しており、当時の活況を伝えている。
室町期の福岡には、その地勢的、経済的な重要性から備前守護・赤松氏や山名氏の守護所がおかれた。文明年間、この両者と浦上氏、松田氏らが福岡の争奪戦を繰り広げ、これが福岡合戦と呼ばれている。