石銀(銀山)
いしがね
大永六年(1526)の銀鉱脈発見以降、世界屈指の銀採掘量を誇った石見銀山の鉱山町。
灰吹法導入による転機
天文二年(1533)、最新の銀精錬技術・灰吹き法が導入され、銀が爆発的な増産をみた。これにより鉱山町も多数の鉱山従事者、各地から集まる商人を抱える巨大な消費都市となった。
『銀山旧記』によれば天文十一年(1542)八月四日の洪水で「溺死千三百余人、その他他国から来ている者其数を知らず」という状況であり、既に多くの人間が銀山に集まっていたことが分かる。
銀山には市場も設けられるようになっていた。石見国鋳物師頭領の山根常安の書状には、常安が鋳物師に役を納めるよう銀山の「市町見世棚」に命じたと記されている。
消費都市
天文二十一年(1552)には杵築の有力商人・坪内氏が尼子氏から銀山屋敷五ヶ所を与えられており、銀山に消費が見込める発展した町場が形成されていたことがうかがえる。この坪内氏は石見国内に米、酒、塩、味噌、肴、絹布、鉄を運び込んでいるが、これらのほとんどが銀山で売却されたという。
天正三年(1575)、島津家久は伊勢参詣の帰路で銀山に滞在した。この時、家久の宿所には大隅国加治木の商人が挨拶に訪れており、九州南部に至る広域流通の端点となっていることがわかる。遺跡からは16世紀後半の中国陶磁や16世紀末から17世紀はじめの唐津焼、伊万里焼などが発見されており、九州海域との結びつきを裏付けている。