弓削
ゆげ
平安期以来、塩の荘園として知られた東寺領弓削島荘の港町。同島を含む周辺海域で生産され、瀬戸内海流通の主力商品でもあった塩の運搬を担う水運の基地として多くの船が発着した。
塩の荘園
鎌倉末期、弓削島荘預所の承誉は、伊予国道後から安い塩を仕入れて東寺への年貢に充て、弓削の塩は生産期前の相場が高い時期に住民から収奪し、売却、換金していた。弓削は塩という有力商品の積出港という特性から、貨幣経済に組み込まれ、流通を担う水運力も培われていったとみられる。
室町期の弓削船の活動
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年の弓削船の兵庫北関への入港回数は二十六回を数え、多くの船が弓削を基地として活動していることが分かる。弓削船の運搬品目はマメと赤鰯、そして総運搬量の大部分を占める備後塩であり、塩の積出港として出発した弓削の性格を端的に示している。ただ、弓削船の備後塩運搬量は三千余石にのぼることから、伯方や岩城、尾道など他の集積港で集荷して兵庫へ運んでいたものとみられる。
同時期の史料である「備後国大田荘年貢引付」によれば、弓削島に比定される「池嶋」、「池ノ嶋」の四郎左衛門が尾道で年貢の米や大豆を積みこんでおり、弓削を基地とする船、船頭が周辺地域の物資運搬を担っていたことを裏付けている。この時期は、海賊衆・来島(因島)村上氏の一族が東寺と契約して弓削島荘の経営にあたっており、彼らも水運に関わったのかもしれない。