村上 右衛門尉

むらかみ うえもんのじょう

 15世紀前半、塩の荘園として知られる東寺領弓削島荘の所務職としてその経営にあたった人物。

弓削島所務職

 応永二十八年(1420)八月、伊予守護家・河野氏の実力者である河野通元から村上右衛門尉に対し、東寺からの請状に基づいて「伊予國弓削嶋所務職」を沙汰する文書が発給されている。この文書は康正二年(1456)九月に弓削島荘の所務請負を契約した村上治部進が東寺に差出したものであり、文書を継承している点から両者が親子関係にあったとみられる。

右衛門尉の出自

  右衛門尉の出自について、村上治部進が康正二年五月に能島氏による弓削島の押妨を非難しているから、能島村上氏の系統でないことは確かとみられる。天正十一年(1583)九月、小早川隆景が乃美宗勝宛ての書状の中で、「来島本地は、先知行弓削、岩城の内四十貫」と述べており、右衛門尉、治部進ら弓削に進出した村上氏は来島村上氏の系統である可能性が高いと考えられる。

来島村上氏と東寺

  来島村上氏と東寺が所務請負契約を結んだ背景には、上述の能島氏をはじめとする小早川小泉氏、山路氏ら海賊衆の押妨に対抗して年貢の未進を解消する狙いがあったとみられる。しかし康正二年九月、村上治部進に所務職を沙汰する幕府管領・細川勝元が東寺領弓削島について「近年有名無実」と述べており、状況が改善していないことがうかがえる。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 山内譲 「海賊衆と水運」 (『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998)