村上 治部進

むらかみ じぶのしん

 15世紀中頃、塩の荘園である東寺領弓削島荘の所務職を得て荘園経営を担った海賊衆。以前に「弓削嶋所務職」にあった村上右衛門尉の子とみられ、康正二年(1456)九月、幕府管領・細川勝元から所務職継承を認められている。

東寺領弓削島の状況

  治部進が所務職を得た当時の東寺領弓削島は、しかし細川勝元が上記の書状で「近年有名無実」と述べるまでの状態となっていた。これは前世紀から始まる小早川氏や小泉氏(小早川庶子家)ら弓削島に進出した海賊衆の押妨を指しており、康正二年五月、治部進も東寺への書状で安芸の小早川小泉氏、讃岐の山路氏、伊予の能島(村上)氏を挙げて彼らを非難している。

 一方、この書状で治部進は伊予守護・河野教通の動向を記すとともに、能島への書状があれば取り次ぐ旨を申し出ている。彼自身が周辺海域に勢力を持ち、伊予守護・河野氏とも通じる海賊衆(来島村上氏とみられる)であることがうかがえる。

やまぬ押妨

  しかし、寛正四年(1463)六月の東寺雑掌申状によれば、治部進の所務職を認めない小泉氏が山路氏以下の海賊とともに弓削島で押妨をはたらいており、これを東寺側が「以外所業也」と非難し、幕府に対しこれを停止するよう要請している。治部進の所務職就任後も海賊の押妨はとどまらなかった。以後、弓削島関係の東寺文書がみえなくなる。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 山内譲 「海賊衆と水運」 (『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998)