尾道
おのみち
尾道水道により荒波から守られる良港を持ち、農産物や鉱物資源などを産する後背地や周辺海域の物資集散地として栄えた瀬戸内海屈指の要港。
室町期には備後守護・山名氏の守護所が置かた。戦国期にも毛利氏の直轄港となるなど、流通に関わる大名権力の拠点ともなっている。
平安期以来の繁栄
嘉応元年(1169)、大田庄(現・世羅町)の倉敷地に設定されて以後、尾道は大きく発展していく。
鎌倉期には、瀬戸内流通に関わって権勢を誇った大田荘預所の淵信が知られ、鎌倉末期の尾道には千軒以上の家が立ち並んでいたという。南北朝期の応安四年(1371)、今川了俊の『みちゆきぶり』には山の麓に家屋が密集し、「みちのく」(東北)や「つくし路」(九州)の船が多く停泊する尾道の姿が記されており、その繁栄を知ることができる。
尾道の水運
室町期の尾道の水運状況を示す代表的な史料である『兵庫北関入舩納帳』によれば、文安二年(1445)、兵庫北関には六一艘の尾道船が入港しており、備後塩9410石の他に米1680石をはじめとする豆類、胡麻などの農産品、赤鰯や鰯といった海産物、そして200枚以上の筵や備後山間部産出とみられる金(鉄素材)100駄などを運んでいる。
日明貿易の基地
また応仁二年(1468)の『戊子入明記』によれば、日本から中国への主力輸出品で、但馬、美作、備中、備後で産出される赤銅は尾道に集められて船積みされている。遣明船の寄港地として国際貿易の一端も担っていたことが分かる。