赤銅(備後)
しゃくどう
備後国の鉱山において採掘された銅の合金。赤銅の比率は銅に対して金3~4%、銀1%で構成される。緑青・硫酸銅・ミョウバンなどを混合した液で煮ると黒みを帯びた紫色になり、古くから仏像・装飾品などの金属工芸にも用いられた。
応仁二年(1468)の遣明船渡航記録である「戊子入明記」には、中国への輸出品として「御太刀」や「御扇」などとともに、「赤銅」が挙げられており、但馬、美作、備中、備後で調達され、尾道から積み出すとしている。備後の赤銅は、当時の日本における主要な輸出品だったのである。
このため国際的にも知られており、1471年に朝鮮の申叔舟が著した外交資料である「海東諸国記」でも、備中州、および備後州については、「産銅」と記している。
この備後国における銅の産出地の一つが沼隈郡新荘(現在の福山市本郷町一帯)とみられている。この地域には銅山があり、江戸初期にはかなりの生産量があった。天正十九年(1591)、尾道の商人・渋谷氏に給与された土地の坪付にも、一筆ごとに「あかさひた」、「あかさひ」などという呼称がしばしばみられ、銅山の公害の影響が出ていることがうかがえる。
また尾道西国寺の寄附帳には、備後守護・山名持豊を筆頭に山名一族が名を連ねているが、つづけて「沼隈郡新荘長者実秀」が記され、銭二十貫文を寄付している。本郷の隣の赤坂には「長者か原」、「金堀谷」という地名があり、実秀は山名氏の支配下で銅山を経営する特権商人であったともみられている。