益田(益田本郷)
ますだ
石見国衆・益田氏の本拠である七尾城、三宅御土居の城下町。益田川の下流域に位置する。石見国西部の政治・経済・文化の中心として栄えた。益田川・高津川河口域の中津(中須)の湊、後に今市を港湾として日本海流通ともつながっていた。
益田氏の本拠
古くから荘園・益田荘であったが、南北朝期に益田氏の益田本郷への支配を固めた益田兼見のもとで萬福寺や崇観寺、医光寺、瀧蔵権現などの社寺が創建され、これにともない同氏の城下町としての基本的骨格が整えられた。
戦国初期の益田兼堯の時代には、石見国の盟主的地位を獲得した益田氏の本拠として益田本郷の政治的重要性が高まった。
城下町の発展
天正十九年(1591)の史料によれば、美濃郡において益田本郷には本郷市と今市の存在が確認される(『大日本古文書 益田家文書』349)。本郷市は15世紀以前から成立していたと推測され、益田川沿いから七尾城に向けて走る街路の両側に形成されたとみられる。
本郷市の屋敷数は天正十九年は105だが慶長四年(1599)の史料では115と八年間で十軒増加している。一方で天正十九年には存在していた美濃郡庄内の横田市や津毛郷の市が慶長四年にはみえなくなる。町人が周辺の町から益田に流入している状況がうかがえる。
この時期は益田氏被官の城下への集住も進んでおり、鍛治や染師、畳職人など益田氏直属職人が「城廻之衆」としてみえる(「益田家於石州被官中間書立写」)。
今市と日本海水運
本郷市と並び益田本郷に存在した今市は、出土遺物の発掘調査結果から16世紀前半に成立し、益田氏の防長移転後、急速に衰微したことが推定されている。このことから益田氏当主権力に直結した新興商人集団の拠点であったと考えられている。地名や地形からの推定によれば、江戸初期には今市まで海が入り込んでおり、ここが益田本郷の港湾機能を担っていたと思われる。
日本海から入ってきた物資は今市で川舟に積み替えられ、益田川を遡って七尾城や三宅御土居、本郷市に荷揚げされたと考えられる。益田氏は水運に積極的に関わったことで知られ、居城の七尾城からも多量の輸入陶磁器が見つかっている。これらの物資は今市を経由してもたらされた可能性がある。