三宅御土居
みやけ おどい
益田の街区をはさみ、益田氏の本拠城・七尾城と向かい合うように益田川右岸に位置する益田氏の居館。この三宅御土居と七尾城を結ぶ通りが中世益田の機軸を構成した。
発掘調査の結果、三宅御土居の成立期は12世紀に遡れるといい、九条摂関家領だった益田荘支配のための何らかの施設があったと推測されている。
鎌倉中期、益田氏は荘園領主に代わり、益田荘の実権を掌握し、同荘の本格経営に乗り出しており、その過程で三宅御土居に拠点を移したといわれる。南北朝期、益田兼見のもとで益田氏の益田本郷の支配が固められており、これにともない三宅御土居は本格的に整備され、同氏の地域支配の拠点として機能するようになる。
戦国期の16世紀中頃、益田氏は吉見氏・毛利氏と極度の緊張関係となり、その居所を大改修した七尾城へと移す。三宅御土居には家臣が配置され、益田本郷防衛の一翼を担う一方、地域支配については副次的な機能を担当するようにあったと推測されている。天正十一年(1583)、中国地方の緊張緩和を受けて益田氏は再び居所を三宅御土居へと戻し、これにともない土塁や堀など大規模な改修が行われた。
島根県益田市三宅町