村上 吉直
むらかみ よしなお
15世紀末から16世紀始めの海賊衆・因島村上氏の当主。備中守。先代当主・吉充の子で、尚吉の父。
大内高弘との連携
明応八年(1499)三月、大内高弘が「村上備中守」(吉直)に宛てて書状を発し、大友親治をはじめとする大友氏の軍勢が豊前の大内氏領に進出しており、近々戦争がおこることを伝えている。この中で高弘は、吉直に対して海上警固についての馳走を求めている。
高弘(尊光)は杉武明らと謀って大内氏当主で兄の義興を廃そうと試みていたが、この年の二月に武明が誅殺され、大友氏を頼って豊後へと逃れていた。上述の書状は、吉直が派遣したとみられる「金蓮寺」(因島村上氏の菩提寺)が豊後・佐賀関に着津した際に託けられたもので、書状に「先状如令申候」とあり、吉直・高弘間で既に書状のやり取りがあったことがうかがえる。
大内義興への警固船協力
明応八年段階では大内義興の敵対勢力と連動していた吉直であるが、永正五年(1508)頃の三月、義興から警固船出動について「調法」してくれたことは「祝着」であるという書状を受け取っており、この時は大内氏の味方として動いている。しかし、吉直の代であるかは不明ながら、天文十年(1541)六月から七月にかけて大内警固衆が因島や能島、甘崎などを攻撃しており、因島村上氏が再び大内氏と敵対していたことが分かる。