警固屋 忠秀
けごや ただひで
呉衆を構成する氏族の一つである警固屋氏の15世紀中頃の当主、もしくは一族。大内政弘の祐筆であった相良正任が書いた文明十年(1478)十月の日記『正任記』に、十月十三日付けで警固屋掃部助忠秀が筑前国穂波郡と嘉摩郡に所領を得たことが記されている。
筑前花尾城を攻撃
文明十年十月当時、大内氏は麻生家延の篭る筑前花尾城を攻撃した。この時、内藤弘矩の軍勢に「呉・蒲刈・能美三ヶ嶋衆」が加わっていた(『正任記』)。警固屋忠秀もこの戦いに加わって戦功をあげ、上記の所領を大内氏から得たものと思われる。
伊予への転戦
花尾城在陣中の二十六日、伊予の河野通春の援軍要請に応えた政弘によって、「三ヶ嶋衆」に伊予への渡海が命じられた(『正任記』)。忠秀も伊予へと転戦したとみられる。
文明十年の戦役は、大内政弘が応仁・文明の乱のため上洛していた間、筑前・豊前で勢力を拡大した小弐氏らの勢力を駆逐するためのものだった。「経覚私要抄」によれば、応仁元年(1467)に政弘率いる大内軍の「海賊衆先陣」は「ノウヘ」(能美?)、「クラハシ」(倉橋)、「クレ」、「ケコヤ」(警固屋)であったという。倉橋多賀谷弘重や能美若狭守らの活動も確認されており、警固屋忠秀もまた文明十年を遡って、応仁・文明の乱の大内軍の幕下に加わっていたのかもしれない。