河野 通春

こうの みちはる

 伊予河野氏の庶子家(後の予州家)当主・河野通元の子。河野氏惣領家と鋭く対立し、15世紀中ごろ、伊予各地で激しい戦いを繰り広げた。

通春の居城であった湊山城址。
通春の居城であった湊山城址。

河野教通との対立

  庶子家当主となってまもない文安元年(1444)ごろから惣領家・河野教通との対立が顕著となり、以後長年にわたる抗争が続く。一時は室町幕府の有力者・細川勝元の支援を受けて教通方に対して優勢に立つ。しかし後に勝元とは不和となって敵対することになった。

上洛

 その後は大内氏の支援を受け、応仁・文明の乱では大内政弘とともに軍勢を率いて上洛。西軍として畿内各地で戦っている。

伊予への帰還

  上洛当初は教通方との講和がなっていたとみられるが、それも数年で破綻。文明九年(1477)、伊予国に帰還後、再び惣領家方と激しい戦いを展開した。しかし長期にわたる上洛がひびき、劣勢をくつがえすに到らず、文明十四年(1482)、居城・湊山城で病死した(戦死説もある)。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998