堀城
ほり じょう
広島湾の東の関門を占める音戸の瀬戸の東岸に位置した城郭。
中世、呉衆の一角を構成した警固屋氏の拠城となり、警固屋氏没落後は宮原勝実が城主となった。堀城が構築された尾根は中世当時は海に突出ていたと推定され、大内氏直属の警固衆である呉衆警固屋氏の海城として瀬戸内海航路の要所を押さえつつ水軍基地を担っていたと思われる。
堀城の南の尾根に鎮座する貴船神社は、かつて小浜山城と呼ばれ、野間水軍一族の拠点として音戸の瀬戸を押さえる役割を担っていたという伝承があり、堀城の出城であったと推定されている。大永三年(1523)、出雲の尼子経久が安芸国に侵攻した際、矢野の国人・野間氏は尼子方に属して呉方面へ進出した。八月、竹原小早川弘平は瀬戸の乃美賢勝に対し、「警固屋辺」の情勢報告とともに帆、垣楯など兵船の準備を命じており、竹原小早川氏と野間氏が海峡を挟んで緊張をはらみつつ対峙していることが窺える。
大永五年、呉方面の戦争は竹原小早川氏、呉衆の勝利に終わり、野間氏に追われた警固屋氏も堀城に戻ったと思われるが、同氏は天文二十三年(1554)、大内氏に叛旗を翻した毛利氏に追われて没落したとみられ、近世の『芸藩通志』には堀城城主として「宮原隼人」(勝実)の名がみえる。宮原勝実は天正年間には瀬戸に居住し、厳島社へたびたび廻廊の寄進を行っており、堀城城主が海峡の両岸に勢力を持っていたことが分かる。
広島県呉市警固屋五丁目