宮原 勝実
みやはら かつざね
戦国後期、音戸の瀬戸の両岸、警固屋と瀬戸の両方に拠点を持ち、大きな経済力を有した人物。警固屋の堀城の城主。隼人佐。その姓から宮原(現在の呉市宮原)の出身とみられ、かつては呉の小領主連合・呉衆の一人であったと思われる。
警固屋、掘城主
呉衆は天文二十三年(1554)の毛利氏の蜂起の際に大内方に属して崩壊したが、中には檜垣新太郎のように小早川氏に属した勢力もおり、宮原氏もまた小早川氏に属して呉における地盤を確保していたと推定される。近世に編纂された『芸藩通志』の安芸国安芸郡の項には「堀城、警固屋村にあり、宮原隼人所居」とあり、警固屋氏没落後、かわって警固屋に進出したと思われる。
厳島神社への寄進
勝実は天正年間には警固屋の対岸の瀬戸に居住しており、享保三年に厳島神社廻廊への寄進者をまとめた「厳島廻廊棟札写」には、天正二年(1574)六月に「当国瀬戸住宮原隼人助勝実」が廻廊一間を寄進したことが記されている。宮原氏と厳島社との結びつきは、文安三年(1446)の厳島社宝蔵のリストに「呉宮原」から寄進された金泥法花経があることからもうかがえる。瀬戸の「宮原隼人佐」は、以後も天正七年六月や天正九年六月、天正十年十二月にも廻廊一間の寄進を行ったことがみえ、勝実がかなりの経済力を有していたことが分かる。
瀬戸は慶長二年(1597)においても安宅船が係留されていた小早川氏の重要な水軍基地でもあり、水軍・呉衆出身の勝実も瀬戸水軍の一翼を担い、平時には水運事業を展開していたのかもしれない。