生口 公実(道貫)
いくち きみざね
室町初期の小早川氏庶子家・生口氏の当主。初代・惟平の子。因幡守。
応永二十二年(1415)二月、仏通寺建立に際して小早川一族が馬を寄進しているが、その際のリストである「仏通寺仏殿立柱馬注文写」(『小早川家文書』)には、「屋形」(小早川惣領家当主・則平)に並んで「生口殿」が書かれており、当時の生口氏が一族内で重きをなしていたことが窺える。この時の当主が公実であった。
海上輸送の特権獲得
応永二十九年(1422)十二月、生口氏は室町幕府から「小早河生口因幡入道公実」の船を「生口舟」と号し、雑具など様々な物を運送するので、「海上諸関」並びに「河上」「兵庫両関」において関船徴収を受けない、という特権を与えられる(「生口船過書案」)。この文書には生口舟は「瀬戸田舟」とも号すとあり、これにより公実ら生口氏が瀬戸田を拠点に海上輸送事業を展開していたことが分かる。
しかし、この特権は翌年三月には幕府により取り上げられる。これは生口氏が本来関銭を負担すべき瀬戸田の商船などを「生口船」と号して関銭を出さずに多数兵庫の関を通過させていたことが発覚したためであった。生口氏と瀬戸田の商人は互いに密接に結びついて海運事業を展開していたことがうかがえる。
光包名の開発
応永三十五年(1428)六月、公実は嫡孫・小法師丸への譲状を作成し、譲渡する所領と、小法師丸の成人まで公実の子・刑部丞が生口島の沙汰を行うことを定めた。譲状には初代・惟平が得た光包名もみえるが、公実はこの地の開発にも力を入れており、同地には「道貫土手」が江戸期まで存在していたという。
関連人物
その他の関連項目
参考文献
- 「第三章第四節 南北朝の動乱と室町幕府」(『瀬戸田町史 通史編』 )2004