生口 守平
いくち もりひら
15世紀中頃の小早川庶子家・生口氏の当主。瀬戸田の象徴ともいえる向上寺三重塔が造営されたのが守平の代。永享四年(1432)の落成供養の際の史料に「当寺外護大檀越生口刑部少輔守平」の名が見える(『宗綱語録』)。
生口島地頭職
守平は向上寺三重塔の造営の翌年、永享五年八月六日に「足利義教安堵御判御教書」をもって生口島地頭職に正式に任じられた。
小早川家中の有力氏族
嘉吉元年(1441)三月、幕府は小早川惣領家の相続争いに介入し、小早川熈平を退けて竹原小早川盛景を跡目とする。幕府はこれを小早川氏一族十六人に通達したが、この時のリストには「浦参河守殿」に次いで「生口刑部少輔殿」の名が記されている。守平が小早川家中でも高い序列にあったことが分かる。
さらに文安元年(1444)十二月には生口氏が外護する向上寺が、幕府管領・畠山持国の奉書により将軍祈願所に定められており、守平が幕府から実力を認められていたことがうかがえる。
宝徳三年(1451)九月、惣領家の不当な行動に対し、小早川庶子家が相互に結束してあたることを約束した「小早川本荘新荘一家中連判契約」が結ばれており、生口守平も傘連判に署名している。
生口島地下人の活動
また寛正三年(1462)五月の「村上図書助申状」によると、弓削島に侵入した生口島の地下人や岩城島の公文らが村上氏に撃退されている。守平ら生口氏が地下人を利用して近隣の島々に勢力の拡大を図っていたのかもしれない。