嶋 (小豆島)

しま

 瀬戸内海東部に浮かぶ小豆島の港町。中世、小豆島は塩(嶋塩)の生産地として知られ、塩を運搬する多くの船が発着した。周辺海域で活動する海賊衆の拠点でもあった。

『兵庫北関入舩納帳』にみる小豆島の水運

 文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、小豆島を意味する「嶋」の船は計25回入関している。嶋船の積載品は小豆島産とみられる塩を中心に、米や小麦、大麦などの穀類、そして小鰯や材木。船の積載量も100石未満は5件ほどで、300石以上が8件。うち一回は500石以上の積載量であった。嶋船には中規模船が多かったことがうかがえる。このほか、牛窓船39件をはじめ連島船12件、ほかに地下(兵庫)船、尼崎船、那波船などが小豆島産の嶋塩を輸送している。

 『納帳』では島嶼部の船籍地は全て島名で記載されている。小豆島は大きな島なので、島内にいくつかの港が存在し、そこに属する船が一括して「嶋」船と呼ばれたとみられる。

 中世の小豆島の港の位置ははっきりとしないが、東南部の内海湾安田付近、西部は小江や池田付近、北部は小海付近に比定できるという。嶋塩を多く輸送した牛窓船は主に地理的に近い北部の小海あたりから積み出したとみられる。『納帳』に記載された船頭に「おみ」とあるが、小海を指していると考えられる。

小豆島の海賊衆

 小豆島では、海賊衆の活動もまた活発だった。 南北朝期、備前児島の佐々木信胤は小豆島に渡り、海賊衆を支配下において活躍した。永享六年(1434)には小豆島周辺に海賊が横行しているため、幕府は備後守護山名氏に遣明船警固を命じている(『満済准后日記』永享六年正月十九日条)。小豆島を拠点とする海賊の存在がうかがえる。

 『陰涼軒日録』明応二年(1493)六月十八日条に「小豆島亦安富管之」とあるように、室町期の小豆島は細川氏の讃岐守護代安富氏の支配下にあった。小豆島池田の明王寺釈迦堂に現存する文字瓦の文中には海賊を意味する「関立」の語があり、小豆島における海賊衆の存在が確認できる。この文字瓦によれば、大永七年(1527)に細川晴元が軍勢を率いて堺に渡り、細川高国と戦った。小豆島海賊衆は晴元に従い、一年余り堺に在陣していた。

 このほか、「南海通記」では島田氏が小豆島の海賊衆の棟梁として存在し、寒川氏によって率いられていたと記している。細川氏の御用下にあり、能島村上氏の支配下にあったという。

秀吉と小豆島

 戦国期、織田氏の勢力が西に拡大する中で、天正九年(1573)以降、小豆島にも織田氏部将・羽柴秀吉の支配が及ぶ。秀吉の部将・小西行長は室津を中心に活動し、小豆島の水軍も率いていたようである。小豆島は四国の長宗我部攻めの拠点にもなっている。

 その後も、秀吉が関東の北条氏を攻める際に小豆島から船と水夫を徴用されている。秀吉の朝鮮出兵の際には小豆島でも船の建造が行われている。小豆島の船大工に動員がかけられたものと思われる。

神社・寺院

  • 明王寺
  • 龍水寺

人物

  • 小西行長
  • 小西隆佐

商品

  • 嶋塩

城郭

  • 星ケ城跡

その他の関連項目

参考文献

  • 橋詰茂「在地権力の港津支配」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007
  • 橋詰茂「海賊衆の存在と転換」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007