那波
なば
深く入り込んだ相生湾の最奥の芋谷川(旧矢野川?)河口部に位置した港町。中世、東寺領(後に南禅寺領)となった矢野荘の倉敷地として物資の集散地を担った。
那波浦をめぐる争い
鎌倉期、地頭として矢野荘に入部した海老名氏の拠点でもあった。南北朝期から室町期にかけて那波浦の支配をめぐり、東寺と海老名氏との間で激しい争論が展開されている。
那波の市場
港町として荘園の内外から物資が集まる那波には那波市と呼ばれる市場が存在しており、矢野荘における東寺の年貢も、那波市での和市(米の相場)に基づいて銭に換貨されて納められていた。和市は時期によって大きく変動するものであり、14・15世紀の矢野荘では、市場で農作物を換貨し、安い時期の和市で年貢を納めてその差額を得ようとする農民側と、高い時期の和市で年貢を納めさせようとする東寺側がきびしく対立している。
那波の水運
那波に市場が立つ背景には、水運による物資や銭の流通がある。永和元年(1375)、東寺は関料のかさむ「海道」ではなく、陸路で京都に運ばせようとしているが、その途上で群盗に遭い、結局海路で輸送させている。このことから那波市で換貨された年貢が、通常は那波から海路で京都に送られていたことが分かる。
那波には水運に携わる業者も多くいた。文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、那波船籍の船は九回、兵庫北関に入港しており、米・マメをはじめ、英賀や小豆島の塩、山崎胡麻などを運んでいる。