赤米(大唐米)

あかごめ

 東南アジア原産で、中世以降に日本(特に西日本)での栽培が確認される米の一種。現在のベトナムにあったチャンパ(占城)から11世紀に中国の華中・華南に導入されたイネの系統といわれる。日本では大唐米とも呼ばれ、長粒で玄米の色は白と赤があったが、多くは赤米であった。最近のDNA分析では、インディカ型に分類されている。

古代の赤米

 飛鳥京の苑池遺構から出土した木簡の一つに、「戊寅」(天武七年(678)十二月)に尾張国海部評津嶋の「韓人アっ田根」という人物が「春赤米」(搗いた赤米)を納めたことが記されている。日本における「赤米」に関する史料で、年代が確定しているものは、この木簡が最古といわれる。これ以降「赤米」の記録は、白米に関するものに比べればごくわずかであるが、7~8世紀にかけて木簡や正税帳に散見されるようになる。

 この古代の「赤米」については、出土米などから判断して短粒のジャポニカ型であったといわれる。このため、チャンパに由来する中世の赤米は、古代のそれとは、別系統のイネとみられている。

赤米(大唐米)の作付と流通

 中世の赤米(大唐米)の早い例としては、徳治三年(1308)に丹波国大山荘西田井村で大唐米の作付けが確認できる(『教王護国寺文書』)。また14~15世紀、播磨国矢野荘では年貢米の2~3割が大唐米であり、その値段は普通米に比べて1割程度安価であった(『矢野荘公文名算用状』『矢野荘供僧方算用状』)。他にも讃岐国東長尾荘や土佐国大忍荘などで大唐米(赤米)の作付けが確認できる。

 文安二年(1445)における兵庫北関の関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、計470石の赤米が兵庫に陸揚げされている。赤米は「サヌキ斗」(讃岐地方で使用されていた枡)または「半双」(主として播磨地方で使用されていた枡)で計量されており、生産地が讃岐地方および播磨地方であったことがうかがえる。また兵庫での関税も、普通米は一石あたり10~15文であったのに対し、赤米は9~10文であった。矢野荘の場合とあわせ、赤米が普通米に対して1割程度安価であったことが分かる。

 慶長八年(1603)から翌年にかけて、長崎においてイエズス会宣教師たちが編集した『日葡辞書』(日本語-ポルトガル語の辞書)には、赤米、大唐米に関する語も収録されている。すなわち「Acagome アカゴメ 」「Taitogome タイトウゴメ」「Toboxi トウボシ」の三語があり、それぞれ「赤い米」とされている。このうち「Taitogome」は「Toboxi」と同じだが、上方だけで用いられるとしており、大唐米(赤米)が九州ではトウボシと呼ばれていたことがうかがえる。トウボシの表記は、近世の赤米の品種名から推測すると、「唐干」や「唐法師」などと思われる。

朝鮮使節が食べた赤米

 赤米の味については、豊臣秀吉の朝鮮侵略中に明の使節に随伴する形で派遣された朝鮮通信使の記録である『日本往還日記』にみることができる。本書は誇張や誤りが多く、そのあたりを考慮しなければならないが、日本の主食についての記述の中で「但将官の外は皆赤米を用ゐて飯と為す(中略)殆んど下咽に耐えず 蓋し稲米の最悪の者なり」とある。つまり喉を通らないほど不味かったということであり、朝鮮の使節には不評であった。

Photos

西伊予市卯之町にあった「古代赤米」。

市場・積出港

  • 仁尾:讃岐西部の港町。
  • 宇多津:讃岐中部の港町。
  • 那波:播磨矢野荘の倉敷地

人物

その他の関連項目

参考文献

  • 小川正巳・猪谷富雄『赤米の博物誌』大学教育出版 2008