牛窓
うしまど
瀬戸内海に面した備前国邑久郡の港町。前面の前島、後背の阿弥陀山によって大風から守られた天然の良港であり、中世、瀬戸内屈指の水運基地として栄えた。
中世以前
『万葉集』巻11には「牛窓の波の潮騒嶋響き寄られし君に会わずかもあらむ」と詠まれており、牛窓は8世紀には都にも知られた港だった。また牛窓湾周辺には牛窓天神山古墳や黒島1号古墳、鹿歩山古墳などの牛窓古墳群が点在しており、古墳時代には既に海運・交易の拠点であった可能性が指摘されている。
瀬戸内海航路の要衝
鎌倉期成立の『拾遺愚草』(藤原定家の自撰家集)や『夫木和歌抄』(藤原長清の私撰和歌集)などの諸歌集には牛窓が泊りとして詠まれている※1。牛窓は古くから多くの人々が行き交う海路上の要衝だった。
南北朝末期の康応元年(1389)三月、室町幕府三代将軍・足利義満は海路での厳島神社参詣の復路で牛窓に寄港。備前国守護赤松氏の一族と思われる赤松右馬助の饗応を受けている(『鹿苑院殿厳島詣記』)。
また天正三年(1575)、伊勢参りに向かう薩摩の島津家久一行は、牛窓の沖で兵船一艘の「関」(海賊)に遭遇した。牛窓が海賊の根拠地の一つだったことがうかがえる。船頭の「捌」によってトラブルは発生せず、船は礼銭を払って牛窓に船がかりすることができ、家久一行は上陸して牛窓見物を行っている(『中書家久公卿上京日記』)。
牛窓と兵庫の間には「人船」(客船)も往来していた。文安元年(1444)の『兵庫北関雑船納帳』※2には「人舟 牛窓」、「人舟 牛窓衛門九郎」、「人船 牛窓馬三郎」などの記載がある。
瀬戸内海屈指の水運の港
文安二年(1445)における関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年に牛窓船は百三十三回にわたり兵庫北関に入港している。これは地元である兵庫を除くと最も多い数である。牛窓船の船籍地は、「関」、「泊」※3、「綾」の注記があり、これらの港から牛窓が構成されていた。
牛窓船が運搬した品目は塩を中心に、穀類や海産物、材木など多岐に及ぶ。例えば牛窓船が運搬した塩の種類としては、嶋(小豆島)塩や備後塩、小嶋(児島)塩が多いが、他にも引田塩、タクマ(詫間)塩、手島(豊島)塩、神島塩などがある。牛窓船は備後から讃岐にかけての広範な地域で活動し、物資集荷、運搬する役割を果たしていたとみられる。
石原氏の活動
同時期の「備後太田庄年貢引付」によれば、牛窓の「いしわら(石原)道幸」が太田荘の年貢を尾道から堺に運んでいる。この石原氏は牛窓の問丸と推測されている。また同氏が大檀那をつとめた本蓮寺本堂の明応六年(1497)在銘の瓦には、「おの道孫四郎」、「備後国おの道浦大工」など尾道の職人の名が刻まれており、牛窓と尾道の結びつきを物語っている。
海外交易
牛窓は海外との交易の拠点でもあった。応仁元年(1467)、「備前卯島津(牛窓)」の代官藤原貞吉が朝鮮に使節を派遣したことが、朝鮮の『海東諸国記』にみえる。これは偽使ともいわれるが、牛窓が朝鮮にもよく知られた港であったことが背景にあると思われる。
応仁二年(1468)に牛窓の「田原丸 千斛(石)」が遣明使船の一つとして候補に挙げられている(『戊子入明記』)。明応七年(1498)には牛窓の質として「唐船積荷」が尾道で差押えられる事件も起こっている。
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神社・寺院
- 天神社
- 牛窓八幡宮:平安期の長和年間(11世紀)の創建とされる。
- 本蓮寺 :日蓮宗寺院。牛窓の有力者、石原氏の保護を受けた。
- 妙福寺:創建は天平勝宝年間(8世紀中頃)。
人物
- 石原道幸
城郭
- 天神山城 :石原氏の居城。
脚注
- ※1:「わすれぬは浪路の月に愁へては身をうしまどにとまる舟人」や「「人知れぬ身のみ思へば牛窓に引き干す網のいはで過ぎぬる」など。
- ※2:入港船から1艘につき45文を徴収した入港税を書き留めた史料。
- ※3:「関浦」、「綾浦」は現在も地名として残っている。「泊」は現在の中浦とする説と本町とする説がある。
参考文献
- 「第三章 第四節 荘園の商業と交通」 (『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 ) 1991
- 山内譲 『中世瀬戸内海の旅人たち』 吉川弘文館 2004
- 金谷芳寛 「牛窓港の「みなと文化」」 http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/076.pdf