沼津
ぬまづ
伊豆国中部山間地域から流れる狩野川と、駿河国東部の山間地域から流れる黄瀬川とが合流して海に注ぐ河口部に位置する港町。後背地に東海道が通るなど水陸交通の要衝の地位を占めた。
伊豆の木材の積出港
承元二年(1208)、鶴岡八幡宮神宮寺造営に際し、用材が「伊豆国狩野山之奥」から伐採されて、「沼津海」に出されている。既にこの頃、沼津が木材の積出港として、また駿河湾から相模湾、鎌倉への海上輸送の拠点となっていたことがうかがえる。
今川領国の主要港
永禄三年(1560)、今川義元が、清水に繋留してあった中間藤次郎の新船一艘に対する諸役免除を認めた書状には、今川氏領国の主要港と思われる港の具体名が列挙されている。その中に清水や小河、懸塚、吉原などとともに「沼津」がみえる。
永禄十一年(1568)九月、沼津や原を含む大岡荘の「上下商人道者問屋」や諸湊から船で出入りする商人のことについて、今川氏真が被官・山中源三郎の領掌を認めている。同様の内容は遡って天文三年(1534)七月に今川氏輝も認めており、沼津周辺には多くの商人、道者が往来し、彼らと取引する問屋がおり、船運もまた活発であった当時の状況を示している。
木綿の積出港
また天文二十二年(1553)、駿河今川氏の御用商人・友野二郎兵衛尉が今川氏から再交付された朱印状によれば、友野氏は江尻、岡宮、原、沼津で「木綿役」の徴収を認められており、沼津が周辺で生産される駿河木綿の積出港となっていたことがわかる。