吉原
よしわら
富士川や潤井川をはじめとする大小河川が流れ、東海道と並行する街道と富士大宮を経由して甲斐に至る街道の結節点に位置する港町。戦国期には重要な渡し場として交通の要地を占めるとともに商品流通の重要な拠点ともなった。
永禄三年(1560)、今川義元が、清水に繋留してあった中間藤次郎の新船一艘に対する諸役免除を認めた書状には、対象の湊の具体名が列挙されており、その中に清水や沼津、懸塚、小河などとともに「吉原」がみえ、吉原が今川領国の主要港の一つであったことがうかがえる。
天文二十三年(1554)九月、今川義元が矢部孫三郎に対し、吉原の「道者商人問屋之事」や「吉原渡船之事」などにおける権益を安堵しており、吉原が道者や商人が往来して問屋が営まれる経済拠点であるとともに、渡船の発着する交通の要衝であったことが分かる。
また天正十二年(1584)には松平康次が矢部清三郎に対し、「伝馬屋敷」と「舟越屋敷」を前々の如く申付ける旨を伝えており、吉原では矢部氏によって伝馬や「舟越」(渡船、及びその業者)の管理がなされていたとみられる。矢部氏はまた兵糧米や船橋の用材、用具の購入や調達も行っており、水陸交通の要衝である吉原には様々な軍需物資も集積されていたと考えられている。
人物
- 矢部将監
- 矢部孫三郎
- 矢部清三郎
参考文献
- 綿貫友子 「遠江・駿河国における湊津と海運」 (『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998)
- 阿部浩一 「戦国期東国の流通と地域社会」 (『戦国期の徳政と地域社会』 吉川弘文館 2001)