清水

しみず

 駿河国庵原郡の巴川河口部左岸に位置する江尻に対し、南の右岸に位置した港町。戦国期から今川氏領国地域の主要港、太平洋航路の中継港として、それまでの江尻の機能を継承する形で史料上にみえるようになる。

今川氏領国の主要港

 永禄三年(1560)三月、今川義元が清水に繋留してあった中間藤次郎の新船一艘に対する諸役免除を認めた書状には、免除がなされる港の代表として今川氏領国の主要港が列挙されており、清水はその冒頭にみえる。つづけて、この特権が、藤次郎が日時を限らず、他国への使いとして今川氏に格別の奉公を行うことを申したことに対する給付であることが記されている。このことから、藤次郎は清水を本拠として今川領国の各港や、ときには他国へも出向く廻船商人であり、清水が広域を運航する廻船の発着地となっていることが分かる。

武田氏の政策

 今川氏を滅ぼして駿河を支配した武田氏も清水を重視していた。永禄十三年(1570)二月、同氏は「清水之津」に陣を築き、岡部(土屋)豊前守以下の海賊衆を配置。天正四年(1576)、海賊衆・岡部正綱は「清水之船拾四艘役銭」を免除されている。

 また武田氏晩期の天正八年(1580)十二月、伊勢国から招致した海賊衆・小浜景隆に対して伊勢から清水に着岸した船二艘の諸役免除を認めている。織田氏、徳川氏ら敵対勢力に圧迫される領国において、清水が伊勢との連絡港・補給港として重視されていた結果とも考えられるという。

人物

参考文献

  • 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998