多賀谷 頼定
たがや よりさだ
倉橋多賀谷氏の一族。右馬助。諱の「頼」は当主の多賀谷興頼からの偏諱か。
春日神社の造営
天文二年(1533)の倉橋本浦春日神社の棟札写には、檀那として多賀谷兵部少輔興頼、多賀谷右馬助頼定、多賀谷肥前守実吉の名がみえる。当主興頼や他の一門とともに春日神社の造営事業を担ったのだろう。
大永四年の戦い
頼定は、大永四年(1524)六月に小早川弘平が乃美賢勝に宛てた書状にみえる「倉橋右馬助」と同一人物と思われる。この年は前年からつづく出雲尼子氏の安芸侵攻に対し、大内氏は廿日市桜尾城の友田興藤とその麾下の神領衆を屈服させて漸く反撃の態勢を整えた時期だった。乃美賢勝は大内方として神領(厳島神主家勢力圏)方面に派遣されていたとみられる。小早川弘平は賢勝に対し、「倉橋右馬助」、「能美兵庫助」、「長浜」、「桧垣大四郎、神兵衛両人」に各々一艘、自ら乗船の上で出陣させて小早川からも一艘出陣させたことを伝え、計五艘が一両日中に到着する予定なので周到に準備するよう命じている。
頼定をはじめ、能美氏、桧垣氏らはいずれも「三ヶ島衆」の面々であり、尼子方との戦争の中で、本来は大内氏直属であるはずの「三ヶ島衆」が竹原小早川氏の指揮下で動いていることが窺える。その後、同年とみられる十二月七日付けの陶興房の書状に、「呉西芸州」方面でかなりの規模の戦闘があったことが記されている。