倉橋多賀谷氏

くらはしたがや し

 室町・戦国期、安芸国倉橋島を本拠に活動した海賊衆。

文明十二年に倉橋多賀谷氏によって再興された柿葺の桂浜神社本殿。
文明十二年に倉橋多賀谷氏によって再興された柿葺の桂浜神社本殿。

多賀谷氏の来歴

 多賀谷氏は元来、武蔵国埼玉郡多賀谷を本貫地とする東国武士であったが、鎌倉期・承久の乱後に支族が伊予国周敷郡北条郷に移る。さらに南北朝期、この多賀谷氏が南朝方に追われる格好で安芸国の倉橋島、蒲刈島に本拠を移したことで、海賊衆・倉橋多賀谷氏、および蒲刈多賀谷氏が成立した。

倉橋多賀谷氏の滅亡

  倉橋多賀谷氏は以後、蒲刈の同族との連携を維持しつつ、大内氏に属する水軍として海上活動を展開した。天文二十四年(1555)八月、大内氏に反旗を翻した小早川氏の軍勢に居城・丸子山城を攻撃されて滅亡した。

Photos

倉橋多賀谷氏の居城・丸小山城。 倉橋本浦の町並み。

当主

  • 多賀谷弘重:文明十二年(1480)に桂浜神社(八幡宮)を再興した。
  • 多賀谷貞光:弘重の子。
  • 多賀谷興重:永正年間に桂浜神社の造営を行った。
  • 多賀谷興頼:興重の子。天文二十四年(1555)に毛利氏に滅ぼされた。

一門

  • 多賀谷実時:檀那として文明十二年(1480)の桂浜神社(八幡宮)再興に関わった。
  • 多賀谷重勝:興重とともに桂浜神社造営の檀那として名が見える。
  • 多賀谷実代:興重とともに桂浜神社造営の檀那として名が見える。
  • 多賀谷実秀:興重とともに桂浜神社造営の檀那として名が見える。
  • 多賀谷貞吉:興重とともに桂浜神社造営の檀那として名が見える。
  • 多賀谷頼定:興頼、実吉とともに春日神社の檀那として名が見える。
  • 多賀谷実吉:興頼、頼定とともに春日神社の檀那として名が見える。
  • 多賀谷興基:興頼の子。毛利勢と戦い戦死したと伝えられる。

家臣団

  • 原盛庸:文明十二年(1480)の桂浜神社(八幡宮)再興の際の神主。
  • 原宮内:桂浜神社(八幡宮)の神官。天文二十四年の丸子山城陥落の際に奮戦したと伝えられる。
  • 海越土佐守:海越の武士。出雲国での合戦で討ち死にしたと伝わる。

居館・城郭