多賀谷 興重

たがや おきしげ

 16世紀前半頃の海賊衆・倉橋多賀谷氏の当主。

近世史料の中の興重

 近世編纂の『芸藩通志』の八幡宮(桂浜神社)の項には、明応九年(1500)の造営の後、永正十一年(1514)に多賀谷興重によって再造されたことが記されている。 また別の項には「多賀谷興重、もと伊予の人、明応文亀の間、倉橋島を領す、子興頼、毛利氏に撃たれ…」ともある。同じく近世の『芸州倉橋浦風土記』多賀谷氏系図にも「右馬権頭興重」がみえるが、この興重が大永四年(1524)六月に小早川弘平が乃美賢勝に宛てた書状にみえる「倉橋右馬助」と同一人物と思われる。

大永四年の戦い

 大永四年は前年からつづく出雲尼子氏の安芸侵攻に対し、大内氏は廿日市桜尾城の友田興藤とその麾下の神領衆を屈服させて漸く反撃の態勢を整えた時期だった。乃美賢勝は大内方として神領(厳島神主家勢力圏)方面に派遣されていたとみられる。小早川弘平は賢勝に対し、「倉橋右馬助」、「能美兵庫助」、「長浜」、「桧垣大四郎、神兵衛両人」に各々一艘、自ら乗船の上で出陣させて小早川からも一艘出陣させたことを伝え、計五艘が一両日中に到着する予定なので周到に準備するよう命じている。

 多賀谷興重をはじめ、能美氏、桧垣氏らはいずれも「三ヶ島衆」の面々であり、尼子方との戦争の中で、本来は大内氏直属であるはずの「三ヶ島衆」が竹原小早川氏の指揮下で動いていることが窺える。その後、同年とみられる十二月七日付けの陶興房の書状に、「呉西芸州」方面でかなりの規模の戦闘があったことが記されている。

関連人物

  • 多賀谷興頼:興重の子。天文二十四年(1555)に毛利氏に滅ぼされた。

その他の関連項目

参考文献

  • 下向井龍彦 「第5節 大内・尼子両氏の抗争と瀬戸賢勝・宗勝」 (『音戸町誌』 2005)
  • 「中世の倉橋島」(『倉橋町史 通史編』 2001)