白井 光胤
しらい みつたね
15世紀末から16世紀前半の仁保白井氏の当主。 縫殿助のちに越中守。親胤の子。膳胤の父。
家督相続
明応四年(1495)十月、安芸分郡守護・武田元信は白井縫殿助光胤に対し、父親胤から譲られた「安芸国仁保嶋海上諸公事」と「同(仁保嶋)飯山後浦悉大河迄」ならびに「府中散在分古市村等事」を安堵している(岩瀬文庫所蔵文書「武田元信安堵状」)。光胤はこの頃親胤から家督を相続したのだろう。
武田氏被官として活躍
それから三年後の明応七年(1498)とみられる年、安芸の武田領に大内氏の軍勢が侵攻した。三月の府中(安芸白井氏の本拠地)への攻撃に続き、五月には厳島神領衆・羽仁氏らの大内方水軍が仁保島に攻め寄せた。この合戦では光胤の被官らが羽仁弥五郎を討ち捕るなど活躍。武田元信は光胤に感状を出して戦功を賞している。
大永元年(1521)前後とみられる年の九月、武田元光(元信の子)は「白井越中守」(光胤※1)の備後での戦功を賞し、いよいよ「彦三郎」に「一味」せよと伝えた(『広島県史』Ⅴ岩瀬文庫所蔵文書3)。「彦三郎」は父元繁敗死後に安芸武田氏を継ぎ、元光の後見を受けていた武田光和ともいわれる。
仁保島防衛戦
大永二年(1522)から大内氏による武田氏への本格攻勢が開始され、白井氏は武田方防衛線の最前線に立つ。三月十八日と二十七日、大内方水軍・多賀谷武重らが仁保島を攻撃(「閥閲録149」)。光胤ら仁保白井氏が防戦にあたったと思われる。
大永三年四月に佐西郡で友田興藤が挙兵し、さらに出雲の尼子経久が反大内方として安芸に侵入したこと等で白井氏への攻撃は一時とまったが、大永六年(1526)には豊後大友氏の援軍一万を加えた大内方の大軍が白井氏惣領家の府中城の南(仁保島の北の対岸)の鹿籠に着陣。府中城は開城して降伏した。ただ、その後豊後で紛争が起こり大友氏の援軍の大半が引き揚げた為、白井氏は武田方に復帰した。
武田氏からの離反
しかし翌大永七年(1527)にも大内方の攻勢は続き、三月から四月にかけて冷泉隆豊や田原親薫ら大内氏、大友氏の軍勢が仁保島および府中城を攻撃していることが確認される。ここでついに仁保白井氏は武田方から脱落。同年四月二十四日、白井膳胤(光胤の子)、同彦七郎が周防国熊毛郡や安芸国佐東郡(武田領)などの知行を得ることを条件に大内氏に寝返った。大永七年四月時点での光胤の動向は不明だが、享禄二年(1529)九月三日、大内義隆が光胤に周防国玖珂郡楊井庄や豊前国築城郡広末名の知行を充行していることが確認される(岩瀬文庫所蔵文書「大内義隆知行充行状」)。
不穏な動向
一族に引きずられる形で武田氏を離れた光胤だったが、その後不穏な動きをみせたらしい。年不詳の正月十五日、大内義隆から杉彦九郎に緊急かつ内密の指示が出された。すなわち義隆のもとに「白井越中」(光胤)が武田氏に寝返ったとする情報がもたらされた為、杉彦九郎も手勢全てをもって仁保島に緊急出動せよというものだった(「杉治郎大輔隆泰家証文」)。さらに「不可油断」、「於遅々者可加罪科」とも記しており、緊迫した事態がうかがえる。
この事件の結末は不明だが、かつて光胤が得たはずの豊前国築城郡広末名の知行が天文十二年(1543)に孫の房胤に与えられているので、少なくとも光胤の所領は没収されていたのだろう。
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関連人物
- 白井親胤:光胤の父
- 白井膳胤:光胤の子
- 白井彦七郎:仁保白井氏の一族か。
- 白井元胤:惣領家である府中白井氏の当主。
- 白井備中守:府中白井氏当主。大永年間、府中城に籠城して大内方の攻勢を防いだ。
- 武田元信:安芸分郡守護。若狭守護。光胤の主君にあたる。
- 武田元光:元信の子。元信の出家後、跡を継いだ。
- 武田元繁:武田元信の安芸代官。光和の父。永正十四年(1517)、有田合戦で敗死。
- 武田光和:武田元繁の敗死後、跡を継いだ。
その他の関連項目
脚注
- ※1:ここでは白井光胤と比定。膳胤とすると大永七年の史料(岩瀬文庫所蔵文書58)に「白井縫殿助膳胤」とある事と整合しなくなる。また享禄二年(1529)九月三日の史料(岩瀬文庫所蔵文書62)には「白井越中守光胤」とある。
参考文献
- 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010
- 『安芸府中町史 資料編』 1977