白井 元胤
しらい もとたね
15世紀末頃の安芸白井氏の当主。 弾正大夫。武田氏の被官。諱の「元」は安芸分守護・武田元信の偏諱か。近世の萩藩閥閲録に記載された白井氏家譜にはその名がみえない。このため、毛利氏に仕えた仁保白井氏の系統ではなく、惣領家の府中白井氏の人物と推測される。
武田元繁とともに連署
明応八年(1499)三月八日付で武田元繁は毛利弘元に対して「上意御窺之事并内部庄伊豆守一行之儀」について注進することを約束している。「伊豆守」は武田氏の惣領武田元信を指す。
この文書は元繁の署名に続けて品川や香川、熊谷、戸坂といった武田氏の安芸分郡内の有力諸氏九名が連署して発給したものであったが、この九名の中に「白井弾正大夫元胤」の名がみえる。
武田元繁は後に惣領家から独立し、熊谷氏らに所領安堵を行うようになる。しかし当時はまだ惣領武田元信の被官として元胤らと同等の立場にあったことがうかがえる。
大内氏の侵攻
元胤の動向は不明だが、この連署状の前年に白井氏は周防大内氏の侵攻を受けた。明応七年(1498)とみられる年の三月、安芸佐東郡の伴要害を攻撃した大内軍が転進して府中に攻め寄せ、白井氏の軍勢と合戦に及んだ。
この合戦には若狭白井氏※1の一族が援軍として駆けつけて活躍している。五月には羽仁氏(大内氏麾下の厳島神領衆)ら大内方の水軍が仁保島を攻撃。白井光胤がこれを退けている。