西 実世
にし さねよ
野間家臣。仮名は新四郎。後に毛利氏に仕え、大内氏との戦争の最前線に投入された。
野間氏の滅亡
天文二十二年(1553)正月、野間隆実の加冠により元服。隆実の偏諱を受けて、実世を名乗った(「閥閲録巻169」)。その翌年に毛利氏が大内氏に反旗を翻す。野間氏はいったんは毛利方に属したが、天文二十四年(1555)三月になって敵対した(「厳島野坂文書」)。四月十四日、野間氏の本拠・矢野保木城は毛利氏の猛攻を受けて陥落(「譜録」渡邊三郎左衛門直)。当主の隆実は助命されたが、殺害された家臣も多かったらしい(「森脇覚書」)。実世の主家は、彼の元服から二年と四ヶ月で滅亡した。
「山里要害城番」
生き残った実世は、毛利氏に仕えることになった。天文二十四年(1555)八月二十二日、毛利元就・隆元父子から「山里要害城番」を命じられている(「閥閲録巻169」)。この指示書には、給地が約束されているものの、石高(貫高)や具体的な在所は示されていない。一方で「子孫迄無相違全可知行候」(子孫に至るまで知行せよ)と記されている。この文言は、在番中に戦死する可能性が極めて高く、戦死後の恩賞が子孫に間違いなく与えられることを保証する意味を持っているといわれる。「山里要害」の在番は、危険な任務とみなされていたことがうかがえる。同日付で新屋実満、末永弥六左衛門、蔵田彦五郎にも「山里要害」城番が命じられている。少なくとも新屋と末永は、実世と同じく野間の旧臣と考えられる。
毛利と陶の最前線
「山里要害」は、毛利氏が大内氏重臣・陶晴賢に備えて「山里」(安芸国西部の山間地域を指す戦国期の呼称。旧佐伯町、湯来町に相当する)に築いた城塞と推定されている。廿日市市河原津の中山城跡がその遺構といわれる。毛利氏は反乱後、陶氏の先遣部隊を折敷畑の合戦で破り、山里方面へ進撃した。しかし陶氏に味方する勢力も根強く存在し、両軍が対峙する状態となっていた。山里は周防国から安芸国に侵入する際のルート上にあり、天文二十四年(1555)六月には、陶晴賢自身がこの地に在陣して廿日市をうかがう構えをみせている(「房顕覚書」「閥閲録巻133」)。八月、毛利隆元率いる毛利軍が山里で攻勢に出て「稲薙」※1を行った(「井原家文書」)。この時、毛利軍は確保した地域の防衛拠点として「山里要害」を築き、いったん引き上げたとみられる(「譜録」渡辺三郎左衛門)。
山里をめぐる緊張
実世らが城番となった「山里要害」は、陶・毛利両軍の最前線となった。陶方も新しく城を築き、この毛利の「新城」にたびたび攻撃を仕掛けたらしい。これに対し、毛利元就・隆元父子は、九月二日に廿日市まで出陣するつもりであることを、家臣・井原元造に伝えている(「井原家文書」)。さらに八月晦日、元就は石見国に出陣していた吉川元春に山里での情勢を伝えた上で、場合によっては陶軍に決戦を挑むので、その時は全軍を率いて山里に駆けつけるよう指示している(京都帝国大学「古文書纂」十)。「山里表之儀、此度此弓矢之善悪まてにて候」(山里表こそ、このたびの戦争の勝敗を決める戦いである)とも述べており、その重要性を強調している。
厳島合戦後
結局、陶晴賢は厳島合戦で敗死し、山里での決戦は起こらなかった。天文二十四年十月四日、毛利元就は山里の「津田勝山」から陶軍が撤退したとの報告を受ける(「波多野家文書」)。実世のその後は分からない。同じく「山里要害」城番だった新屋実満は、弘治二年(1556)十月に毛利隆元から山里で給地を与えられている(「閥閲録巻85」)。討死していなければ、実世も山里で給地を得たのかもしれない。西氏の子孫は、その後も毛利氏に仕えている※2。
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関連人物
- 野間隆実:野間氏最後の当主。実世の元服時に偏諱を与えた。
- 新屋実満:毛利家臣。野間旧臣の可能性がある。山里要害の城番の一人。
- 末永弥六左衛門:吉川家臣。野間旧臣の可能性がある。山里要害の城番の一人。
- 蔵田彦五郎:毛利家臣。山里要害の城番の一人。
その他の関連項目
- 山里要害(中山城)
脚注
- ※1:敵方の兵糧を断つ目的で収穫前の稲を薙ぎ倒す作戦。敵味方の勢力の境目地域、または敵方の勢力圏に侵入して、敵城の周辺などで実施するのが通例。
- ※2:「閥閲録169」では、実世の次代を西六右衛門としている。六右衛門は天正十九年(1591)時点で、周防国玖珂郡に八石余の給地を持っていた(「毛利氏八箇国御時代分限帳」)。
参考文献
- 秋山伸隆・表邦男 「厳島合戦前夜の山里合戦と「山里要害」」 (『廿日市の文化』第24集) 廿日市市郷土文化研究会 2011
- 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録 第4巻』 1971