野間 隆実

のま たかざね

 安芸国矢野の国人・野間氏の当主。彦太郎。近世初期成立の『陰徳太平記』では官途名を刑部大輔とする。正室は熊谷信直の娘。

絵下谷の観音堂(真光寺跡)から眺めた矢野城跡。
絵下谷の観音堂(真光寺跡)から眺めた矢野城跡。

家督継承

 家督を継いだ時期は不明だが、享禄年間に野間興勝が補任を行なっているので、これ以後とみられる。天文二十二年(1553)正月には、西新四郎に加冠を行ない、偏諱を与えて「実世」と名乗らせている(「萩藩閥閲録」巻169)。

大内方に寝返る

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏に反旗を翻すと、隆実はいったん人質を出して毛利方についたらしい。しかし天文二十四年(1555)三月、その人質が脱走をはかった。彼らは横田(現在の広島県安芸高田市美土里町横田?)において毛利氏に捕捉され、全員殺害された。野間氏の寝返りを確実とみた毛利氏は、二十六日に直属水軍である河内警固衆を出動させている(「譜録」阿曽沼内記秀明)。

海田を攻める

 三月末、隆実は毛利氏に対する軍事行動を開始。海田(現在の広島県安芸郡海田町)において、「警固矢野衆」(野間氏の水軍)と毛利方の「世能衆」(阿曽沼氏)が合戦となった(「厳島野坂文書」)。毛利隆元は厳島社家・野坂房顕への手紙の中で、世能衆が敵の主だった者を十人余討ち捕ったとしているので、野間氏の水軍は敗れたのだろう。なお当時「警固奉行人」として大内方水軍を率いていた白井賢胤も、同じく三月晦日に仁保島と海田で戦っている(「白井文書」)。両者が連携した作戦だったと思われる。

矢野保木城に籠城

 四月三日、毛利元就は野間氏の本拠地の矢野に向けて出陣。野坂房顕に神前祈念のための湯立料を寄進している(「野坂房顕文書」)。毛利隆元も九日付で房顕に祈念を依頼し、矢野を即時に仕崩すべしと意気込みを語っている(「野坂房顕文書」)。一方で大内氏も羽仁中務丞と小幡某が率いる援軍を矢野の保木城に入城させた(「森脇覚書」)。

 四月十一日、毛利勢は「矢野千手山」に攻めかかって尾頸二の丸を切り崩し、大内氏の援軍を多数討ちとった。「萩藩閥閲録」には、桂元将や末國光氏、赤川又六らこの時活躍した者たちの感状がみえる。毛利勢に本城に迫られた隆実は、十四日に降伏。城を明け渡した(「譜録」渡邊三郎左衛門直)。

野間氏の滅亡

 家臣たちは城下の寺(『陰徳太平記』は真教寺とする)で皆殺しにされた(「森脇覚書」)。近世初期の『陰徳太平記』では、残った兵も熊谷信直の領地である三入(現在の広島県広島市安佐北区三入)に連れて行かれ、だまし討ちにされたという。また羽仁中務丞ら大内氏援軍も、毛利方から人質を取って周防国に引きあげる途中、府中の町で毛利勢に討たれた(「森脇覚書」「棚守房顕覚書」)

その後の隆実

 一方、隆実本人は助命された。隆実の正室が毛利方の熊谷信直の娘であったためという。「森脇覚書」は「近年迄吉田三入御座之由候」としている。その後、元亀元年(1570)春に死去した。その給地は熊谷就真(熊谷信直の子)に与えられた(「萩藩閥閲録」巻127)。

Photos

絵下谷観音堂(真光寺跡)のそばにある五輪塔。この地で討たれた野間家臣たちを供養する為のものだろうか。 矢野城麓の絵下谷にある観音堂。隆実降伏後、野間家臣たちが討たれた寺があった場所だという。

関連人物

  • 西実世:隆実が加冠。偏諱を与える。
  • 新屋実満:野間家臣か。野間氏滅亡後に毛利氏に仕えた。
  • 末永弥六左衛門:野間家臣か。野間氏滅亡後は毛利氏に出仕し、後に吉川元春に仕えた。
  • 羽仁中務丞
  • 小幡某
  • 野村弥五郎:野間家臣。毛利氏に降伏後、真教寺で討たれた。
  • 豊嶋伊豆守:野間家臣。毛利氏に降伏後、真教寺で討たれた。
  • 野村藤蔵:野間家臣。毛利氏に降伏後、三入で討たれそうになる。しかし追っ手を斬り伏せ、商人船に乗って泉州堺に逃れたという。
  • 末長源七郎:野間家臣。毛利氏に降伏後、三入で討たれそうになるが切り抜けたという。

その他の関連項目

参考文献

  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅴ』 1981
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1987
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第三巻 1970
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第四巻 1971