明応大地震

めいおうだいじしん

 明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2~8.4の大地震。

 地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。

  日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。

 遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が津波によって水没したとされる。

 また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 峰岸純夫 「中世東国水運史研究の現状と問題点」 (峰岸純夫・村井章介・編 『中世東国の物流と都市』 山川出版社 1995)