安濃津

あのつ

 伊勢海に注ぐ安濃川や潟湖に囲まれた砂堆上に展開した港町。南の「藤潟」に面する湊を核に形成され、外部とはいくつかの橋によって結ばれていた。中世、伊勢海および東太平洋における海運の要港として繁栄し、「日本三津」の一つとして国内外にその名を知られた。

京都の東の玄関口

 安濃津は伊勢街道と伊勢別街道が合流して伊勢へ至る交通の要衝にあった。特に京都とは東海道ー伊勢別街道によって約90kmの距離にあり、京都の東国への玄関口としての機能も担ったとみられる。

安濃津神人の経済活動

 この安濃津に中世を通じて影響力を行使したのが伊勢神宮だった。安濃津御厨の神人たちは活発な商業活動を展開しており、建久七年(1196)四月の史料によると、彼らは「往反諸国成交易之計」していたと主張している。安濃津神人たちは諸国を遍歴して交易を行っていたというのである。

安濃津の市場

 安濃津における物資集散地の機能としては、康暦元年(1379)頃に「安乃津市」が存在したことが確認される(「安東郡専当沙文」)。また安濃津の遺跡からは、中世前期において尾張産の瀬戸や常滑、山茶碗が安濃津に集積され、ここで選別、商品化された後に全国に流通したことが推定されている。

伊勢国一の大都会

 物資流通の重要な拠点となった安濃津の室町記の様子については、応永二十五年(1418)、将軍足利義持の伊勢参詣に随行した花山長親院の「耕雲紀行」に次のように記されている。「その夜は、あのゝ津(安濃津)につきぬ。念仏の道場にやとる。こゝは、この国のうちの一都会にて、封彊もひろく、家のかす(数)もおほくて、いとミところあり、当日の守護土岐の世やすとかや、御まうけ(儲)ないとなむ」。当時、安濃津は大都会になっていたのである。

明応大地震

 しかし、安濃津は明応七年(1498)、大地震による地震津波で壊滅する。大永二年(1522)にかつての安濃津を訪れた連歌師の宗長は「此津、十余年以来荒野となりて、四、五千間の家、堂塔あとのみ、浅芽、よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり」(『宗長日記』)と記している。かつての大都市は災害から24年たった後も荒野にその惨状をさらしていたのである。

戦国期の安濃津

 ただ、その後、安濃津は復旧したとみられる。元亀元年(1571)二月、織田信包は安濃津の「津三郷・同岩田」に対して公事や陣夫役の免許など、特権の保証を行っている。また天正二年(1574)七月、長島一向一揆攻撃の際に織田信長の軍勢動員に応じた諸勢力として、熱田桑名などとともに「阿農の津」がみえる(『信長公記』)。近世になると安濃津は城下町・津へと吸収される。

神社・寺院

  • 無量寿寺
  • 阿弥陀時
  • 来迎寺
  • 神護永法寺
  • 観音寺
  • 西来寺
  • 光明寺
  • 円明寺
  • 上宮寺:真宗高田派の寺院。

人物

  • 綿屋又五郎

城郭

  • 津城

参考文献

  • 藤田達生 「港湾都市・安濃津から城下町・津へ」(伊藤裕偉・藤田達生・編 『都市をつなぐー中世都市研究13』 新人物往来社 2007)
  • 矢田俊文 「戦禍・災害と人々の生活」(有光友学・編 『日本の時代史12 戦国の地域国家』 吉川弘文館 2003)