小河

こがわ

 駿河湾西岸の朝比奈川河口部に位置する港町。古くから周辺荘園の物資積出港として広域流通の拠点を担った。

京都への海路輸送

 応永二十年(1413)と推定される遠江守護代・甲斐祐徳の書状によれば、小河の南、大井川下流域に位置する南禅寺領初倉荘の年貢米が小河に運ばれている。この年貢米は小河からさらに京都南禅寺へと漕送されたと思われる。

万里集九の見た小河の繁栄

 文明十七年(1485)九月、禅僧・万里集九は懸塚から船で小河に入った。彼は『梅花無尽蔵』の中で、道路は汚れ、足の踏み場も無いと町の様子を記している。また外来船が港で迷い、停泊に手間取ったこと、小河に大船が多かったことも記しており、当時、海運の拠点として繁栄した小河の様子を伝えている。室町期、小河には烏帽子屋道慶など屋号を持つ商人が居住していたことが別の史料にみえ、商業も盛んであったことがうかがえる。

明応大地震による壊滅と復興

 しかし、明応七年(1498)八月、明応大地震と、地震によって発生した巨大な津波が太平洋沿岸を直撃する。これにより小河は、「只、河原ノ如ク成リテ」(『日海記』)や「小川悉損失ス」(『妙法寺記』)という有様となり、壊滅的な被害を受ける。

 その後、大永六年(1526)、連歌師・宗長が小河の有徳人・長谷川元長をたずねており、この頃までには、復興を果たしていたと思われる。また永禄三年(1560)、今川義元が中間藤次郎の新船一艘に対する諸役免除を認めた書状には、具体名を挙げられた七つの港の一つとしてみえ、往時の繁栄を取り戻していることがうかがえる。

参考文献

  • 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998