東城
とうじょう
備後北部、東城盆地に位置した市町。山陰と山陽・瀬戸内海を結ぶ街道や、備中へ至る街道が通る交通の要衝であり、中世には備後の国人・宮氏の重要拠点となった。
宮氏東の拠点
備後国人・宮氏の第六代景友は、東城の町を見下ろす成羽川西岸の城山に五品嶽城を築城。その後、天文二年(1533)に第七代高盛が現在の西城町に大富山城を築いて本拠を同城に移した。五品嶽城には、家臣の渡辺七郎左衛門尉が入り、大富山城の「西城」に対し、「東城」と呼ばれるようになったという。
市場
五品嶽城の城下である成羽川東岸には、現在でも「市頭(いちがしら)」の地名が残る。この地名は天正二十年(1592)の千手寺文書にもみえることから、戦国期には既に市が立っていたことが分かる。応永十九年(1412)に「備後国奴可東条内鉄山村」の存在が確認できることから、東城の市が備後の特産物である鉄の流通拠点として機能していた可能性が高い。
近世城下町の形勢
東城が城下町として本格的な市街形成が進むのは17世紀初め。関ヶ原合戦後に安芸・備後に入部した福島正則の重臣・長尾隼人が五品嶽城の城主となってからと考えられている。
この時期に、 大坂屋初代の谷山新左衛門が大坂から、和泉屋与兵衛が和泉国から来住。彼らは後に東城の町年寄を勤めるような有力商人であり、長尾隼人のもとで町割にも関わった可能性もある。他にも上梶屋喜内は、天正五年(1577)に備中国成羽から奴可郡川西村へ移り、その後東城に「引越居住」したという。上梶屋は東城町へ出て「鉄トウヲ売買シ酒ヲ造」ったというから、鉄流通との関わりがうかがえる。