成羽

ナリワ

 備中国の主要河川である高梁川の水系・成羽川が貫流する成羽盆地に位置した市庭町。中世、天龍寺領成羽荘の中心であるとともに、戦国期、有力国衆・三村氏の拠城・鶴頸城の城下町としても栄えた。

三村氏の進出

 三村氏がいつごろ成羽に進出したかは明らかでない。しかし明徳四年(1393)十月、幕府は天龍寺雑掌から「三村信濃入道」の「余類」が成羽荘に居座っていることについて訴えられ、この問題の対処を守護・細川満之に命じている。おそらくこの頃に三村氏は成羽に進出し、その後成羽に居館ないし、城郭を設けていったものと思われる。

成羽の町場

 『成羽八幡旧記』によれば、天文十三年(1544)三月、阿部庄の牢人が成羽の「市場」を夜討する事件が起きた。この襲撃は三村氏家臣で成羽八幡社の神職でもあった渡辺甚兵衛(当時、七十三歳!)が敵の首領・井上新九郎を討ち取って退けたが、この時の甚兵衛のセリフに「当市ハ町頭ハ西、敵引バ町尻ヘコソ引ラン」とある。成羽の市庭在家がある程度発展した町場を形成していたことがうかがえる。

三村氏の戦略拠点

 永禄三年(1560)に当主・三村家親が松山に移った際も、その弟で家中の重鎮であった親成が支配を引き継いでいる。成羽はその後も三村氏を支える後方の拠点として、また三村氏が結ぶ毛利氏の備中以東経略の拠点としても重要な意味を持ち続けた。

神社・寺院

  • 成羽八幡社

城郭

  • 鶴頸城 

参考文献

  • 「第三章 第四節 荘園の商業と交通」 (『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 ) 1991
  • 『岡山県史 第十九巻 編年史料』 1988