備後砂
びんごずな
備後国帝釈峡・夏森で産出された白色粒状の石灰石。石灰石が黒雲母花崗岩の貫入を受け、その接触部が熱のため変質して糖晶質になった結晶質石灰岩であり、特に備後砂は日本で採掘されるもののうちでも炭酸カルシウム純度が極めて高く、良質であるとされる。
江戸期の地誌にみる備後砂
近世に編纂された『芸藩通志』「奴可郡 古蹟名勝」の項には、現地で産出される備後砂について詳しく記されている。「夏森巌(前略)打破けば、みな雪のごとし、盆山、盆栽の根に敷き、又細末にしては景盆に用ふ、光沢ありて愛玩すべし、世に備後砂利と称す是なり、土人は地名を以、夏森ざりとよべり」とある。中世もそうであったかは不明だが、現地の人々は備後砂を「夏森ざり」と呼んでいたことが分かる。
室町期の備後砂
室町期、枯山水式石庭や盆石※1の流行の中で、備後砂はその敷砂として珍重された。室町期に成立した狂言の「萩大名」にも「ああびんごずなでござる」の言葉がみえる。備後産の白い砂として登場することから、当時の京都周辺でも有名な品であったことが分かる。
享禄三年(1530)、越後上杉氏は、同氏家臣で京都駐在の「在京雑掌」神奈実綱を通じて備後砂の入手を図っているが、実綱の書状には「備後砂事、涯分可尋申候、京都にも稀物にて候」とあり、当時の京都では備後砂が希少であったことが述べられている。
国人山内氏の贈り物
この備後砂の産出地を支配していたのが備後の有力国人・山内氏であった。山内氏は将軍・足利義輝に太刀や馬とともに備後砂を献上している。この備後砂は将軍家の庭に敷かれるとともに、「京都無比」と驚かれ、秘蔵の品とされた。同時期、山内隆通は義輝から毛氈鞍覆・白笠袋を免許され家格を高めており、備後砂が外交上重要な役割を果たしたことがうかがわれる。