韮山
にらやま
伊豆国の大動脈・狩野川の平野部への入口に位置する韮山城の城下町。
すぐ西に四キロで江浦などの港湾に至る交通の要衝であり、室町・戦国期、北条氏のもとで同国の政治・経済の中心となった。韮山四日町の西には長禄二年(1458)、堀越公方が御所を構えており、韮山周辺が室町期には伊豆国の要所であったことが分かる。
明応二年(1493)、北条氏の祖・伊勢宗瑞(早雲)は、堀越公方・足利茶々丸を討ち、韮山城を改修して新たな本拠とする。発掘調査により、韮山城周辺からは16世紀の侍屋敷の遺構が発見されており、北条氏のもとで計画的な町立てが行われたことが判明している。これとは別に韮山城の西には四日町があり、ここは堀越御所にも先行する旧来からの町場であったと思われる。
北条氏時代の四日町はさらに都市的発展を遂げたとみられ、同町には伊豆における舞々や移他家、陰陽師などの総元締めにあたる伊豆太夫の「太夫屋敷」があったことが確認される。
韮山四日町には「四日町御蔵」と呼ばれる北条氏の蔵が置かれており、ここに伊豆国における北条直轄領の年貢が集積されていたとみられる。また「四日町御蔵銭」ともあることから、四日町が年貢米の売却も行われる換貨市場であった可能性もある。永禄四年(1561)頃、北条氏は伊勢廻船中に対し、津端(伊東)で接収した伊勢船の兵糧米の対価を韮山で支払うとしており、韮山が伊豆国に占める経済機能の重要性がうかがえる。
また韮山では、銘酒「江川」が江川氏のもとで造られていた。天正十八年(1590)三月、北条氏は千津島村に対し、韮山の「江川前」で「大樽」を受け取り、小田原に運ぶよう命じている。当時、江川酒は関東一円はもとより全国的にも知られた銘酒であり、韮山における酒造業が盛んであったことがうかがえる。