宮市における津料闘争

みやいち に おける つりょうとうそう

 室町・戦国期、松崎天満宮の門前町である宮市は、周防中部一帯に広がる松崎天満宮信仰圏の中心であり、また古代から周防国の政治・経済の中心であった国府に隣接していることもあり、周防中部の経済的中心を担っていた。そのため、佐波川下流に面する宮市の港には周辺地域から多くの物資が荷揚げされていたとみられ、この荷に対し、宮市を支配する松崎天満宮・大専坊は自らが任命する市目代を通じて津料を徴収していた。

  しかし津料徴収は必ずしもうまくいっておらず、大永五年(1525)、その理由の一つとして「こあきんど」と呼ばれる物資生産地(在地)の商人のうち、炭薪を扱う者が、宮市での津料徴収をきらって三田尻に荷を廻送していることが挙げられている。さらに、享禄元年(1528)には、この在地商人たちが、村落を超えて「惣郷なミ」という連合体を形成し、津料忌避闘争を展開していたことが史料にみえる。

  彼ら宮市周辺の在地商人について、大内氏は宮市の兄部氏を特権商人として統制にあたらせているが、文明十四年(1482)には、大内氏への課役が果たされていないなど、その掌握は不完全であり、この在地商人たちが特権商人・兄部氏に対抗できる実力を身につけていたことがうかがわれる。毛利氏時代においても、鈴屋村の木売・松売をする商人たちが、津料を忌避しており、16世紀を通じて津料闘争が展開されていたことがわかる。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 鈴木敦子「中世後期における地域経済圏の構造」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000」