多賀谷 孫四郎

たがや まごしろう

 戦国期の海賊衆・蒲刈多賀谷氏の部将。大内氏の部将・仁保興奉が大永四年(1524)八月十日付で提出した桜尾城での合戦注文にその名がみえる。

多賀谷孫四郎が攻撃に参戦した桜尾城跡の桂公園。
多賀谷孫四郎が攻撃に参戦した桜尾城跡の桂公園。

桜尾城をめぐる情勢

  大永三年に出雲尼子氏とその傘下の安芸国衆に安芸国から駆逐された大内氏は大永四年に入って本格的な反撃に転じ、大内義興・義隆父子は大軍を率いて周防から安芸に侵攻した。この侵攻ルートを塞ぐ廿日市桜尾城に尼子方の厳島神主・友田興藤が麾下の神領衆とともに立て籠もっていた。

激しい攻防戦

 仁保興奉の合戦注文は、興奉麾下の軍勢が七月二十四日と二十九日に「東山」(桜尾城)の「北面虎口水之手」を攻撃した際の負傷者を陶興房に報告した史料。これに二十九日に多賀谷孫四郎が右腕に矢傷を負ったことがみえる。既に二十四日には大内方の陶衆が城の二重にまで侵入したが、城方の抵抗で多くの死傷者を出して撃退されており(『房顕覚書』)、孫四郎が負傷した桜尾城攻囲戦の激しさがうかがえる。

蒲刈多賀谷氏の状況

  大永三年に安芸東西条の鏡山城が尼子氏の攻撃で陥落した後、孫四郎の出身地とみられる蒲刈も尼子方に攻略されたとも伝えられる。その中でも孫四郎は依然として大内氏に属して戦い続けていたことが分かる。

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関連人物

  • 仁保興奉

その他の関連項目

参考文献

  • 『下蒲刈町史 資料編』 1998
  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975