村上 図書助
むらかみ ずしょのすけ
15世紀中頃、弓削島の支配の一端を担っていたとみられる海賊衆。弓削島荘所務職を持つ村上治部進の一族か。
周辺諸島の海賊衆の侵入
寛正三年(1462)頃の五月、村上図書助は東寺の備前公御房に宛て、弓削島近隣の状況を報告するとともに、近年の年貢遅滞について弁明を行っている(「村上図書助申状」)。これによると、図書助らは弓削島に侵入した生口島の地下人たちを去年皆退治したとあり、さらに岩城島の公文が関を立てて仲間と語らい城に篭っていたので、今月二十四日に公文一類残らず打ち殺したとしている。
そして、これら海賊の不断の乱入により、両三年は百姓が逃散したため、年貢が無沙汰になってしまったことを報告し、この内容について嘘偽りが無いことを「八幡大菩薩」に誓っている。
塩の荘園として知られる弓削島には、生口島(生口氏?)や岩城島などの勢力が侵入を繰り返していた。図書助ら荘園の管理を担う側の海賊衆はこれを武力で排除していたことがうかがえる。