瀬戸(隠渡)
せと
広島湾に東の玄関口にあたる音戸の瀬戸に臨む港町。音戸の瀬戸は平安末期に平清盛が開削事業を行ったといわれ、古くから海路の要衝にあった。中世、音戸の瀬戸を押さえる戦略的重要性から瀬戸をめぐる国人間の抗争も繰り広げられた。
瀬戸をめぐる抗争
応永年間に矢野の国人・野間氏から波多見島を獲得した竹原小早川氏は、沼田小早川氏から帰順した乃美員平(瀬戸兵部丞)を瀬戸城の守将とする。その後、野間氏に瀬戸城と波多見島半分を割譲したが、大永三年(1523)に瀬戸城を奪回して領有を確定する。
小早川氏、毛利氏の水軍基地
以後、瀬戸は小早川氏の西方の最前線拠点となった。瀬戸城主・瀬戸(乃美)賢勝、宗勝父子は瀬戸の水軍を率いて周辺海域で活動し、天文二十三年(1554)では宗勝率いる瀬戸水軍が毛利氏の広島湾制圧に重要な役割を果たしている。慶長二年(1597)、広島城下の橋普請のために瀬戸に繋留中の安宅船が解体されており、以後も毛利氏の水軍基地であったことが分かる。
瀬戸内海の要港
瀬戸は航路の要港でもあった。天文二十年(1551)三月、周防国での年貢徴収の任務を終えて京都へ帰還する京都東福寺の梅霖守龍は、二十八日に宮島から室津の五郎大夫の大船に乗船し、その日は「ヲンドノセト(音戸の瀬戸)」に停泊して、翌日は蒲刈に向かっている(『梅霖守龍周防下向日記』)。
天正十六年(1588)七月、毛利輝元が上洛する際、音戸瀬戸に寄って「御立宿」で行水しており(『輝元公御上洛日記』)、他にも文禄・慶長の役で豊臣氏が定めた名護屋までの航路における継船を置く中継港に室や鞆、上関などとともに瀬戸が挙げられている。
瀬戸在住の有力者
天正年間、瀬戸に居住する宮原勝実が何度も厳島神社の回廊建設に寄進を行っており、瀬戸が経済的にも繁栄していたことがうかがえる。