国際港としての小浜
こくさいこうとしてのおばま
日本海に向いた京都の北の外港でもあった小浜には、北は蝦夷地、西は九州、対馬、あるいは朝鮮と日本海沿岸全域から来航する船が発着したが、さらに遠く、明や東南アジアとの通交もあったとみられる。
「神宮寺領所成物目録」によると、元亀二年(1571)十月、小浜の神宮寺は、若狭遠敷郡恒枝のうちから成物として二百二十六文を「唐人六官」に納めたことがみえる。また年未詳の神宮寺月行事御房宛の連署状からも、唐人六官の存在が確認できる。彼らはおそらく小浜かその周辺に来住した唐人(中国人、あるいは朝鮮人)であり、小浜に外国船がある程度頻繁に来航し、貿易が行われていたことがうかがえる。
「税所次第」によれば、応永十五年(1408)六月、小浜に「南蕃船」が着岸している。派遣者は「亜烈進卿」とされ、彼は東南アジアの港市国家・パレンバン(旧港)の華僑の頭目で、明朝から旧港宣慰使に補任された施進卿とみられている。はるか遠く、パレンバンから来航した南蛮船は日本国王へ「生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対」などを贈り、一度は大風で船が大破しながらも、翌年十月、船を新造して小浜を出航した。
南蛮船は応永十九年(1412)六月にも二艘で小浜に着岸しており、問丸本阿弥を宿としている。その後、小浜と東南アジアとの関係は窺えないが、16世紀末、小浜の豪商・組屋は「るすん壷」を扱っており、かつての通交を髣髴とさせる。