呂宋壷
るそんつぼ
16世紀末から17世紀初期にかけて主に茶道具として日本で珍重された陶器。中国南部や中部ベトナムで作られた雑器であるが、ルソン島を経由して輸入されたため、このように呼ばれる。
呂宋壷は現地では安価な日用品であったが、日本では茶人の評価が高く、主に葉茶壷として破格の値段で取引された。
スペイン人のマニラ占領と中国商人
1567年、中国・明政府が海禁政策を廃止(対日貿易は禁止)したことを受け、中国-東南アジア間の貿易が活発化した。特に1570年にスペイン人がマニラを占領し、スペインの新大陸領から大量の銀が流入したこともあり、中国商人の活動が活発となり、彼らにより多くの陶磁器が持ち込まれていた。
納屋助左衛門と呂宋壷
この時期、日本の商人も東南アジアへの進出をはじめていた。『太閤記』巻十六によれば、「泉州堺津菜屋助右衛門」(納屋助左衛門)は、文禄二年(1593)、ルソン(フィリピン)に渡航し、翌年帰国した際に堺代官・石田杢助を通じて豊臣秀吉に唐の傘、蝋燭千挺、生た麝香鹿二匹を献上している。この時、納屋助左衛門はさらに「真壺」(呂宋壷)五十個を秀吉に披露した。
「則、真壺(呂宋壺)五十懸御目しかハ、事外御機嫌にて、西之丸の広間に並へつつ、千宗易などにも御相談有て、上中下段々に代を付せさられ、札を押、所望之面々たれゝゝによらす執候へと被仰出なり」。つまり秀吉は千宗易をはじめとする側近の豪商茶人の目利きによって、輸入の真壺(呂宋壺)に「上中下」といった等級を付けて、「名物」としての付加価値を与えたという。
スペイン人が見た呂宋壷
16世紀末から17世紀初頭の状況を記したアントニオ・モルガの「フィリピン諸島誌」にはマニラから日本商人が搬出する商品として金や生糸、蘇木、ワインとともに「大きな壷」が挙げられている。マニラに来航する日本商人によって多くの呂宋壷が日本に輸入されていたことがうかがえる。